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斎宮歴史博物館 > 斎宮事典 > 斎宮Q&A > 斎宮Q&A 回答

斎宮Q&A 回答

斎王について

Q斎王の読み方は?

Aさいおう(音読み)、もしくは、いつきのひめみこ(訓読み)と読みます。
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Q斎王は何人いるの?
A60人余りです。飛鳥時代の大来皇女から、南北朝時代の祥子内親王までの数です。ただし、飛鳥奈良時代、元明朝の斎王としている多紀、智努、円方の3人については、史料上の制約もあり、本当に斎王であったのか、はっきりしません。そのため、正確な人数は不明で、博物館では第何代斎王という呼び方はしていません。強いて、この3人を数えると67人となります。
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Q最年少の斎王は?
A功子内親王で、高倉天皇の治承元年(1177年)斎王に卜定された時には2歳でした。高倉天皇の皇女で、母は藤原公重女で輔局と呼ばれました。野宮に在った治承3年(1179年)に母が死去したため、群行をせず退下しました。その後の消息や薨去の年もわかっていません。
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Q最年長の斎王は?
A歴史上の斎王として最も年長の斎王は、後堀河天皇の斎王であった利子内親王(1197年生・1251年没)です。卜定(占いで決まった)段階で29歳でした。
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Q在任期間の一番長い斎王は誰、何年?
A醍醐天皇(885年生・930年没)の時代の斎王、柔子内親王(生年不明・959年没)です。寛平9年(897年)に選ばれて、延長8年(930年)まで、足かけ34年にわたって斎王を勤めました。伊勢に来たのが昌泰2年(899年)なので、斎宮には32年にわたって滞在していたことになります。醍醐天皇の時代には社会は一応安定しており、一方で後継者がまとまらなかったことにより、なかなか退位できず、斎王の在任が長くなったようです。柔子内親王は醍醐天皇の同母姉妹なので、年はほとんど変わらなかったと思われます。
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Q斎王の名前に、よしこ、やすこが多いのはなぜ?
A実は、斎王の名前をなんと読んだのかは、記録にふりがなが振っていないのでわかりません。斎王のいた時代の女性名の読み方には音読みと訓読みの二通りがありますが、斎宮歴史博物館では訓読みで、中でも縁起の良い意味の読み方で読んでいます。名前をつける時には、めでたい良い意味のある字を使うので、「よしこ」や「やすこ」が多くなってしまったのです。
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Q斎王になるための条件は?
A平安時代に編纂された『延喜式』には、天皇が即位したら、伊勢神宮の斎王を未婚の内親王を選んで合否を卜(うらな)い定めよとしています。また、内親王がいない場合は、女王(内親王でない皇族女性、主に親王の娘)から選んで卜うことが記載されています。つまり必須条件は、未婚の皇族の女性ということです。ただし、『延喜式』にあるこの条件は、あくまで原則でした。未婚の内親王がいるのに、女王が選ばれることもありました。
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Q「卜定」って何?
A天皇の即位に伴い未婚の皇女(内親王)あるいは近親の女王から、斎王が「卜」という古来よりの占いによって定められるので、これを「卜定(ぼくじょう)」といいます。多くの場合「亀卜(きぼく)」という、亀の甲を火で炙り、その際に入るひびの状況からものごとを決定します。その後斎王の「初斎院(しょさいいん)」の場や、「野宮(ののみや)」の地も「卜定」により決定されます。
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Q斎王を退任した後はどうしていたの?
A斎宮女御(さいくうのにょうご)のように、都に戻ってから結婚した人もいますが、多くの人は静かに余生を過ごしたようです。中には、出家して尼さんになった人もいます。
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Q斎王の役割は?
A伊勢大神に仕えること、具体的には、年間3回の大きな祭(9月神嘗祭(かんなめさい)、6月、12月の月次祭(つきなみさい))に参加することです。斎王を選ぶのは、『延喜式』という法律細則書には、天皇の義務とされていました。伊勢神宮は天皇家の守護神であり、祖先神とみなされた天照大神をまつる神社なので、他の神社とは違うと、一目でわかる扱いが必要でした。その意味では、斎王の役割は、伊勢神宮が他の神社と違うのだ、ということを明らかにすること、だったといえるでしょう。
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Qなんで斎王は未婚の女性なの?
A「斎(いつき)」というのは、身を清浄に保って世間から離れるという意味です。斎王が神宮に赴くのは年間三回だけですが、斎宮にいても精神的にはずっと神さまに仕えていることになります。従って、普通の社会生活はできません。だから、家庭を持つ人には務められなかったのです。また、神さまの妻と見なされていたから、という説もあります。
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Qなんで斎王の母親は斎王と一緒に付いてきてはだめなの?
A母親が斎王と共に斎宮にやってきた例は、確実なものとして2例あります。円融朝の斎王、規子内親王と母・徽子女王の例と堀河朝の斎王、善子内親王と母・藤原道子の事例です。徽子女王の場合は、円融天皇の制止もふりきり、伊勢に下りました。当時の人々は前例のないことだと評しました。しかし、『延喜式』をはじめとする文献では、斎王の母親の伊勢下向を禁止していません。あくまで慣例だったようです。なお、光孝朝の斎王、繁子内親王の群行に母・滋野直子が同行したことがわかる記録があり、これも含めて3例とすべきかもしれません。
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Q斎王のことを斎宮とも呼ぶことがあるの?
A伊勢神宮に奉仕する斎王の他に、平安京遷都後間もない9世紀初め嵯峨天皇の時代に、平安京の守護神である賀茂神社にも皇女が斎王として奉仕することになりました。このため伊勢神宮の斎王を「斎宮」と、賀茂神社の斎王を「斎院」と、それぞれその居所から呼ばれることとなりました。また、「斎宮」が「御杖代(みつえしろ)」と称されたのに対して、「斎院」は「あれおとめ」(現れた女神)といわれました。
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Q斎王が一度に二人いたって本当?
A平安時代になって、賀茂神社に仕える斎王が選ばれるようになりました。これにより、伊勢神宮に仕える斎王と合わせて斎王は二人になりました。どちらの斎王も、皇族の女性から占いで選ばれましたが、交代条件など規則は伊勢の斎王のほうが厳しかったようです。二人を区別するため、伊勢の斎王を「斎宮」、賀茂の斎王を「斎院」と呼び分けていました。
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Q今、伊勢神宮に斎王はいないの?
Aいません。斎王の制度は、14世紀の前半になくなりました。以後、朝廷と伊勢神宮の仲介役となったのは、祭主(さいしゅ)です。祭主は平安時代にはあった制度で、大中臣(おおなかとみ)氏という貴族の中から男性が任命され、神宮の責任者として京と伊勢を往復していました。この制度は江戸時代の末まで続きましたが、明治に男性皇族の役職となります。さらに戦後に、伊勢神宮が宗教法人として独立してからは、元皇族の女性が任命されて、現在に至っています。
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Q斎王は伊勢神宮でどのようなことをしていたの?
A伊勢神宮での斎王の行動については、『延喜式』などに記載されています。外宮、内宮の順で一日ずつ祭祀に参加します。祭の始めに、正殿に向かい、太玉串(ふとたまぐし)を捧げ、拝礼します。そのあとも祭は続きますが、斎王はずっと控えているだけでした。これは、内宮・外宮いずれにおいても同じでした。博物館では、常設展示室で斎王の所作を再現しています。
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Q斎宮女御ってどんな人? 
A斎宮女御(さいくうのにょうご)とは、斎王の任を終え都に戻った後、入内して天皇の女御になった人のことをいいます。歴史上では、重明親王の娘で村上天皇の女御になった徽子女王のことを指します。三十六歌仙の一人として、また文芸サロンを生んだ徽子の代名詞が斎宮女御なのです。一方、この徽子女王をモデルとして、『源氏物語』にも斎宮女御が登場します。その呼称は、六条御息所の娘で、斎王退任後、冷泉帝の女御となった秋好中宮の別称です。
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Q野宮、頓宮って何?
A卜定された斎王は神に仕える身となるため、その後、清浄潔斎の日々を過ごすこととなります。まず、大内裏内の既設宿舎のひとつを卜定し「初斎院(しょさいいん)」とし、斎王は、この一室に忌み籠り、翌年7月まで留まり潔斎生活を重ねます。
 さらに京外の清浄な土地を卜定し、「野宮(ののみや)」と呼ばれる仮宮が造営されます。斎王は初斎院から野宮へ移り、その後約1年間清浄潔斎生活を続けます。平安時代の野宮は、多くは洛西嵯峨野近辺の地に卜定されました。
 伊勢に向かう斎王は都から5泊6日の旅を続けます(「群行」参照)。この際、「頓宮(とんぐう)」と呼ばれる、臨時の宿泊施設が造営されます。この頓宮は近江国(現滋賀県)の勢田・甲賀・垂水と伊勢国(現三重県)の鈴鹿・一志の5か所に造営されました。
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Q斎王の交代条件は?
A天皇の崩御や譲位によって新たな天皇に代わる時と、自分の肉親が死ぬなどの不幸があった時、斎王自身の病などにより斎王は交代となります。また、斎王自身が亡くなった場合も、新しい斎王が選び直されます。
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Q斎王群行って何? 
A斎王が都から伊勢に来る5泊6日の旅のことを群行(ぐんこう)といいます。斎王に従う人々は、「将従」と呼ばれる従者が伊勢で雇用されるとしても、斎宮寮の官人や雑務にかかわる人々だけで200人はいたと見られます。他にも斎王を送り届ける責任者として、斎王に随行する長奉送使と呼ばれる勅使(天皇の使)や、各国々で先導をするこの国の国司。そしてそれらの人々のお供などもいますので、まさに「群れて行く」行列になっていたようです。
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Q斎王制度がどうして必要だったの?
A皇祖神を祀る伊勢神宮と宮廷を結ぶ、また天皇と伊勢の神とを結ぶ象徴として必要だったと考えられています。
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Q斎王は遷宮とは関係ないの?
A大いに関係があります。伊勢神宮の式年遷宮では、豊受宮(外宮)では9月15日夜、皇太神宮(内宮)では16日夜、古宮から新宮への遷御が行われます。斎王は、外宮には9月14日、内宮には15日に旧宮に参拝し、その後は離宮院に戻っていました。通年の神嘗祭での参拝日程とは若干異なりますが、古宮での斎王の行事は、神嘗祭と同じでした。遷御の儀式(遷宮祭)は規模は異なるものの神嘗祭と表裏一体の関係にあるという指摘もあります。
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Qなぜ斎王制度は廃絶してしまったの?

A斎王制度は天皇を中心とする律令国家を神祇の側面で権威づけるために必要な制度であったと考えられ、飛鳥時代に始まり、平安時代の前期の9世紀前半には制度的に完成・安定します。しかし9世紀後半の摂関政治期以降、律令制度そのものが弱体化、変質して行くにともない、斎王制度の形骸化がはじまり、11世紀後半の院政期に一時的な必要性を持つものの、鎌倉時代には天皇の実権が小さくなると斎王制度の存在意義はますます形骸化されます。ところが天皇親政の復興をめざした後醍醐天皇の建武政権が成立すると、その象徴のひとつとして斎王制度を重視しますが、その時に卜定された斎王が最後となり、建武政権瓦解と共に斎王制度も終焉をむかえます

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Q「わかれの御櫛」って何?
A斎王が伊勢に向かって都を出発する際の儀式の中で、天皇が二寸ほどの櫛を斎王の髪に挿します。斎王は、都の方を振り返ることも許されぬまま、出発しなければなりません。このため、天皇との最後の対面となるかも知れないこの時の櫛は「別れの御櫛」と呼ばれました。
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Q斎内親王と斎王との違いは?
A内親王とは、天皇の娘のことです。天皇の娘や、前の天皇の娘が斎王となれば、斎内親王と呼ばれるのです。一方、天皇の息子である親王の子や、孫以下の皇族は王や女王と呼ばれます(天皇から数えて五代目までが皇族の範囲)。女王から斎王が選ばれた時には、斎女王と呼ばれます。奈良時代には、斎王とは斎女王を略した呼び方でした。内親王や女王に関係なく、役職名として「斎王」が使われるのは9世紀後半以後のことのようです。
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Q斎王の日常生活は?
A斎宮でも斎王は祈りを捧げる日々を過ごしながら、良子内親王の貝合日記にあるように貝合せをしたり、歌を詠んだり、都と変わりのない生活をしていたようです。しかし、仏教やケガレに関する言葉を口にしてはいけないという、神に仕え清浄であることが前提である斎王らしい決まりごともありました。
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Q明和町内にある斎王のお墓のことを教えて
A60人余りの斎王の中で、斎宮で亡くなった斎王が二人います。円融朝の隆子女王(974年没)と高倉朝の惇子内親王(1172年没)です。明和町馬之上には、宮内庁管轄の隆子女王の墓があります。ただ、姫塚とも呼ばれていた小塚を明治期に指定したもので、当地に散在した古墳の一つである可能性もあります。惇子内親王の墓は町内有爾中に伝承地があります。文献上の記録もないことから、二人の墓の場所は不明と言わざるを得ません。
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Q倭姫命は斎王ではないの?

A『日本書紀』には倭姫命(やまとひめのみこと)を御杖代(みつえしろ)として天照大神が伊勢国に鎮座した伝承がみられますが、その伝承や倭姫命の実在は実証できません。加えて現在各地に伝わる倭姫命の伝説の多くは、平安から鎌倉にかけて、神宮の中でどんどんふくらみ、鎌倉時代にできた伊勢神宮の神道書『倭姫命世記』に見られる、中世につくられた伝説です。それがつくられた頃の斎宮は、見る影もなく衰退し、そのまま南北朝時代に廃絶してしまい、それと入れ替わるように倭姫命伝説が拡大解釈されて各地に広まるのですから、『倭姫命世記』にのみ見られる倭姫命伝説は歴史史料として扱うことはできません。

斎宮について

Q斎宮の読み方は?
A当館では、通常「さいくう」と音読みをしています。「さいぐう」と読むのも間違いではありませんが、伊勢神宮の「外宮」「内宮」をそれぞれ「げくう」「ないくう」と濁らずに清音で読むのに倣って「さいくう」としています。訓読みして「いつきのみや」と読んでも間違いではありません。
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Q斎宮には何人の役人がいたの。その根拠は?
A『延喜斎宮式』には、斎宮で働く人の月料、つまり月給などについての項目があります。それによると、斎王に仕える斎宮寮の官人(つまり正規の国家公務員)が26人、番上と呼ばれる交替で勤務する人々が101人、女官が命婦、乳母以下43人、もろもろの雑役にかかわる人70人、将従と呼ばれるお供などをした人273人、祭の実務に関わる人7人などが書き上げられています。全部で520人となるのです。
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Qどうしてこの場所(現明和町)に斎宮が置かれたの?
Aどうしてかは、歴史史料に記されてはいません。現在の斎宮は、伊勢神宮の勢力範囲「神郡」の西端に位置します。そして、奈良時代の官道に接して設けられています。ですので、伊勢神宮へ三節祭のため向かう際、神郡内をより長く行列してその斎王あるいは天皇の威儀を示したのではないかと推定されています。もしくは、伊勢神宮のすぐ近くでは、神宮側の反発が大きく、そこで神郡の端に設けられたのではないかとも考えられます。いずれも、仮説に過ぎません。
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Q斎宮の財源は?
A斎宮の財政は、奈良時代の天平2年(730年)、神宮の財政から自立します。『延喜式』からそのあり方をみると、斎宮寮の財源は、調・庸などの税物で、主に東海道・東山道18か国から貢納されていました。また、伊勢国内にあった供田・外供田や墾田からの稲・地子稲も寮に納められました。蔵部の管理のもとで、祭祀の経費、人件費、物品費などに使用されました。この仕組みは、中央財政を圧縮した「ミニチュア版」ともいうべきものでした。
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Q斎宮の役所はどのような仕組みだったの?

A斎宮には「斎宮寮」という官司が設置されていました。そこには頭・助・大充・少充・大属・少属・使部よりなる本局の下に、主神司・舎人司・蔵部司・膳部司・炊部司・酒部司・水部司・門部司・馬部司の13の司と呼ばれる下部組織がありました。『延喜式』によれば、職員数は総計520人を数え、地方に存在する官司としては、大宰府と並ぶ大官司です。斎宮跡の発掘調査では、斎宮寮の官司名を記した墨書土器が、「方格地割」から数多く出土しており、区画内に斎宮寮があったことは間違いありません。
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Q伊勢市小俣町にある離宮院って斎宮とどんな関係にあるの?
A斎宮と伊勢神宮の中間に離宮院(りきゅういん)があります。斎王は、年に三度の伊勢参宮の際に、離宮院に宿泊し、「外宮」・「内宮」にお参りするのです。なお、この離宮院には、大神宮司の役所や駅家も併設されていました。現在は、その一部が国史跡「離宮院跡」とされているのみで、大部分が未調査となっています。
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Q斎宮の規模はどれぐらい?
A8世紀前半までの斎宮の中心は確認されていません。博物館の南側では奈良時代の建物や遺物が見つかっていますが、範囲はそれほど広くはありません。斎宮が大きくなるのは、8世紀後半、780年代に碁盤目状の区画、方格地割が造られた時です。この区画は最大幅14.9メートルの道路で区切られた、一つ約120メートル四方のブロックからなり、東西7列、南北4列まで確認されています。すべての区画が同時にあったとすれば、東西1キロメートル、南北500メートルの広大なものとなります。
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Q奈良時代も斎宮は平安時代と同じ場所にあったの?
A奈良時代の斎宮はどこにあったのかは、その遺構がはっきりしないためわかりません。しかし、博物館の南から参宮街道までの間にあった可能性が、これまでの発掘調査成果から想定されています。
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Q斎宮が「たけのみやこ」と呼ばれるわけは?
A平安時代中期に成立したとされる『大和物語』呉竹に、「かの斎宮のおはします所は、たけのみやことなみいひける」という一文があります。藤原兼輔が斎宮を訪れた際、常緑である呉竹になぞらえて、斎王の長寿を祝う内容です。この「たけのみやこ」は、呉竹の「たけ」だけでなく、多気郡の「たけ」も掛けています。つまり、多気郡にある宮処(みやこ)、斎宮という意味であり、竹林の中の斎宮をイメージするのは少し難しいかもしれません。
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Q「忌みことば」って何?
A清浄潔斎を求められる斎宮では、穢れたものへの接触や穢れた行為などを避けるだけではなく、その言葉の使用も禁止し、代用の言葉を使用することが求められます。「延喜斎宮式」には仏教関係など、次のような忌詞が記されています。仏は中子に、経は染紙に、塔はアララギに、寺は瓦葺に、僧は髪長に、尼は女髪長に、斎(=僧尼の食事形態)は片膳に、死はナオルに、病はヤスミに、哭(=死者を悼んで泣くこと)はシオタレに、血はアセに、打は撫に、穴(=獣肉)は菌(=きのこ類)に、墓はツチクレに、(仏)堂は香燃に、優婆塞は角筈に、それぞれ言い替えます。
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Q斎宮で働いていた人たちはどんな人?
A斎宮には、斎王の秘書的な役割を果たす命婦や身の回りの世話をする乳母、庶務係である女儒といった40人あまりの女性たちがお仕えしていました。また、斎宮寮という役所では、13の司に分かれ、財政・警備・調理など任務別に多くの男性が働いていました。正式な官人は少ないのですが、非常勤の官人や雑用係も含め、男女合わせた総数は520人を数えました。地方の役所としては破格の規模で、太宰府並みといえます。
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Q斎宮と『延喜式』との関係は?
A斎宮についての規定は律令にはありません。律令の根本である『大宝律令』に、斎宮の規定がなく、斎宮寮の待遇などはその後に順次定められてきました。こうした新しい規定は「式」とよばれる施行細則として公布されたのですが、その「式」を修正したものとして、『弘仁式』『貞観式』『延喜式』の、通称「三代式」が作られました。『延喜式』はその中で唯一現存するもので、そこに「斎宮」についての法律が集成されているのです。
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Q斎宮のことを書いた記録は残っているの?
A斎宮については、『延喜式』にその規定が記されています。その他、『日本書紀』や『続日本紀』などの歴史史料、それから『源氏物語』や『伊勢物語』などの物語、『万葉集』などの歌集などから斎宮・斎王についてうかがうことができます。
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Q斎宮の役人たちの家は斎宮の中にあったの?
A現在、方格地割(ほうかくちわり)とよんでいる区画が斎宮(斎宮寮)の範囲です。平安京ならば、平安宮にあたるところです。また、現在で言うならば官庁街にあたり、官人たちは自宅から出勤していました。つまり、斎宮内に役人たちの家はありません。なお、斎宮の周りには、官人たちの住居があったと考えられます。斎宮とその周辺には500人の官人とその家族が生活していたのです。これは古代において、全国でも有数の集住地域であったと言えます。
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Q斎宮の人たちはどんなものを食べていたの?
A『延喜式』には諸国から斎宮へ次のような食材が運ばれてきたことが記されています。それによると、米・大麦・小麦・粟・大豆・小豆などの穀物、塩、ごま油などの食用油、アワビ・カツオ・サケ・アユ・フナ・タイなどの魚貝類、鳥肉、海藻類、あまずらという甘味料・けしの実・わさびなどの調味料です。ここにあるもののほとんどは干物など保存食ですが、斎王のために贄を買うための稲も計上されており、「はやにえ」という言葉から考えれば、地元産の新鮮な魚貝類や野菜類も調達されたのでしょう。

文学について

Q伊勢物語と斎宮との関係を教えて
A『伊勢物語』の69段から74段は、伊勢に関する章段といえます。特に、69段「狩の使」には、在原業平(ありはらのなりひら)とおぼしきある男と斎王の一夜の出会いが描かれています。この時の斎王は、文徳天皇の娘である恬子内親王といわれていますが、真相は不明です。また、104段・107段にも、元斎王の話として回顧談が描かれています。
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Q本当に在原業平は斎宮に来たの?
Aこれには長い間、議論があります。『伊勢物語』には、業平は「狩の使」として斎宮を訪れたとありますが、実際に狩の使としては来ていないという説が有力です。しかし『古今和歌集』には密かに下った、としています。遅くとも10世紀後半には、斎宮に来たことは信じられていたようですが、実際に来たのか、フィクションなのか、何らかの寓意があるのかについては結論が出ていないのが現状です。
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Q伊勢物語に関わる美術品ってどんなのがあるの?
A斎宮歴史博物館が所蔵するものには、絵巻や物語の挿絵であったと思われる色紙、扇面画帖、屏風、かるたや茶箱、硯箱などがあります。
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Q恬子内親王ってどんな人?
A文徳天皇の第二皇女で、異母兄弟である清和天皇の即位に伴い、859年、斎王に卜定されました。母は、紀名虎の娘静子です。出生年が不明ですので、卜定時の年齢はわかりません。876年、清和天皇譲位に伴い退下し、913年、無品のまま亡くなっています。『伊勢物語』に在原業平をモデルとする昔男の恋の相手として登場しますが、事実関係は不明です。しかし、後世には二人の間に子(高階師尚)が生まれたとする記述が散見します。
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Q在原業平ってどんな人?
A在原業平(825年生・880年没)は平安時代初期の貴族で、六歌仙、三十六歌仙のひとりでも有名な歌人です。父は平城天皇第一皇子の阿保親王、母は桓武天皇の皇女伊都内親王で、臣籍降下して在原氏を名乗りました。平安時代の歌物語『伊勢物語』は業平を主人公として書かれたと考えられています。『伊勢物語』69段には狩の使として伊勢へ下向した際に斎宮と対面し、夢の一夜を過ごしたとされます。この斎宮は文徳天皇の皇女恬子内親王と推察されます。
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Q万葉集に斎宮は出てこないの?
A『万葉集』には、飛鳥時代の斎王「大伯皇女(大来皇女)」の詠んだ和歌が6首載せられています。このうちの2首(105・106)は、弟の大津皇子が伊勢の大伯に会うため下ってきた時の歌です。残り4首(163から166)は、大津皇子が謀反の罪で処刑された後、その死を悼んで詠まれたものです。どれも姉弟の情愛を感じさせる歌ばかりです。
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Q源氏物語と斎宮との関係を教えて
A『源氏物語』の「賢木」巻には、光源氏の年上の恋人だった六条御息所という女性が、源氏と別れて伊勢に下るお話が記されています。この人は亡き皇太子の妻だった人で、その娘が斎王に選ばれたのを契機として、源氏との関係を解消したのです。また、その娘の斎王は、帰京の後、源氏の後援を受けて、時の帝(じつは源氏の子)の冷泉院の妃になり、斎宮女御、さらに秋好中宮と呼ばれ、源氏の権勢の一部を担うことになります。
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Q斎宮女御こと、徽子女王ってどんな人?
A延長7年(929年)、醍醐天皇の第四皇子重明親王と藤原寛子との間に、親王の長女として生まれました。8歳で斎王に卜定され、10年近く斎宮で過ごしますが、母寛子の死により退下帰京します。その後、村上天皇と結婚します。斎宮という経歴から「斎宮女御」と称され、村上天皇との間に多くの歌を残します。娘・規子内親王が円融天皇朝の斎王となると、天皇の制止も聞かず、娘とともに伊勢へ再び下ります。それは前代未聞のことであり、このことから『源氏物語』の六条御息所のモデルともされています。
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Q斎宮女御集のことを教えて
A斎宮女御集とは、斎宮女御と呼ばれた徽子女王の家集です。徽子の歌だけでなく、徽子との贈答歌、夫である村上天皇や娘の規子内親王の歌なども載せています。この家集は、徽子の死去(985年)の後、側近の女房たちによって編まれたと考えられています。配列や歌数が異なる、大きく4系統に分類される写本が伝わっています。当館では2冊の写本を所蔵しています。うち一冊は、資経本『斎宮女御集』と呼ばれる鎌倉後期の貴重な写本です。
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Q斎宮が出てくる古典文学は何があるの?
A『伊勢物語』69段「狩の使い」、『大和物語』36段・93段、『源氏物語』、『更級日記』、『栄華物語』巻12「たまのむらぎく」・巻13「ゆふしで」、『大鏡』第1巻、『とはずがたり』などに斎王が登場します。
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Q枕草子に斎宮は出てくるの?
A『枕草子』は、平安時代に書かれた随筆ですが、直接的に斎宮の話は書かれていません。ただし大斎院と称された選子内親王と定子中宮との文の贈答の場面が見られるなど、斎院(賀茂の斎王)との交流については記述がみられます。
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Q斎宮と和歌文学との関係は?
A三十六歌仙の中に「斎宮女御」として、朱雀天皇の時代の斎王、徽子女王が入っています。三十六歌仙とは、平安時代中期に、過去の歌人たちから選んだ三十六人の歌の名手のことです。斎宮女御は、夫である村上天皇との歌のやりとりをして、夫の死後は、斎王規子内親王の母として再び斎宮を訪れ、都の友人たちや仕えた女性たちとの歌を遺しました。歌が残された斎王は多くありませんが、このようなやりとりは、他の時代でも行われていたと思われます。
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Q歌合ってどんな遊びなの?
A平安時代に行われた貴族の遊戯「合物(あわせもの)」の一つです。左右に歌人たちが分かれ、交互に和歌を一首ずつ詠み、優劣を競い合います。内裏での公的な歌合だけでなく、私邸でも数多く催されました。歌合の中には、美しい貝や州浜とともに歌を競い合う貝合(かいあわせ)という遊びもありました。斎宮でも、後朱雀朝の斎王・良子内親王の御前で貝合が行われたことが知られています。
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Q百人一首と斎宮との関係は?
A直接の関係はありません。百人一首には、賀茂社に仕える斎王(賀茂斎院)である式子内親王は登場しますが、伊勢の斎王は登場しません。百人一首に先行する三十六歌仙には、斎宮女御こと、徽子女王が数えられていますが、残念ながら百人一首には採用されませんでした。ただ、百人一首には、在原業平や藤原兼輔、藤原敦忠、大中臣能宣、紫式部、三条院、西行法師など、斎王や斎宮と関わる人物が取り上げられています。
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Q中世文学と斎宮・斎王の関係は?
A中世文学の中で斎王が描かれる代表作品は『とはずがたり』です。それ以外にも『無名草子』や『風葉和歌集』などから、擬古物語や散逸物語の中に斎王が登場することがわかります。『海女の刈藻』や『苔の衣』などです。特に、『我が身にたどる姫君』(巻6)は、斎王を同性愛者として描くショッキングな内容となっています。また、『十訓抄』にも、平安時代の斎王の逸話が採られています。
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Q「とはずがたり」にも斎王は出てくるの?
A鎌倉時代に後深草院二条によって綴られたという日記『とはずがたり』には、愷子という元斎王が登場します。美貌の斎王が退任し都に戻ると、後深草院は二条に手引きをさせて自分の異母妹にあたる元斎王と契りを交わします。この時代に描き出される斎王には、かつてのような清浄さ・神聖さがほとんど見られません。

発掘調査について

Q斎宮の発掘調査はいつから始まったの?
A史跡斎宮跡の西部にあたる斎宮歴史博物館の敷地及び南部のふるさと広場一帯はかつて古里遺跡と呼ばれていました。そこに団地開発計画がもちあがり、昭和45年(1970年)、事前の遺跡範囲確認調査を行ったところ、試掘坑のすべてで中世の遺構・遺物のほかに奈良時代の堀や竪穴住居、土器なども確認されました。そこで翌年、面的な発掘調査が実施され、奈良時代の大溝(おおみぞ)、土坑、掘立柱建物や蹄脚硯(ていきゃくけん)、大型朱彩土馬が確認されました。特に蹄脚硯は、当時平城宮跡や大宰府でしか見つかっておらず、斎宮の存在を確たるものにした最初の物証となりました。というわけで古里遺跡も斎宮の一部であったということがわかり、発掘調査で最初にメスが入った昭和45年の範囲確認調査を斎宮の第1次調査としています。
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Q発掘調査は明和町が行っているの?
A斎宮跡の実態解明のためには、何年も継続して調査を実施していく必要があり、考古学のみならず、歴史学、文学、自然科学などの集積による総合研究のうえに成り立っています。そのため三重県が斎宮歴史博物館という調査研究機関を設置し、そこで計画的な調査を進めるとともに、地元明和町は史跡の保全・管理の役割を担っています。
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Q「方格地割」って何のこと?
A奈良時代の終わり、光仁天皇の時代に、それまで博物館の南に置かれていた斎宮は、心機一転、史跡の東部の現在の竹神社のあたりに移されます。さらに光仁天皇の息子である桓武天皇は、父が造った斎宮を引き継ぎ、これを中心にして広大な都市的な地割りを造ります。これを「方格地割(ほうかくちわり)」と呼んでいます。方格地割は50尺の計画幅の中に作られたおよそ12メートルから15メートルほどの直線道路によって、一辺120メートル四方の区画がいくつも作られ、その中に斎宮の宮殿や役所の建物が建てられ、都のような景観であったと考えられています。
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Q斎宮の発掘調査では、主にどんなものが出てくるの?
A 斎宮跡から出土する土器のほとんどは土師器(はじき)と呼ばれる素焼きの土器で、全体の約90パーセント以上を占めています。それ以外に須恵器(すえき)や灰釉陶器(かいゆうとうき)、緑釉陶器(りょくゆうとうき)などがあります。
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Q斎宮の建物の特徴は?
A斎宮内の建物は基本的に掘立柱建物で構成されています。これまでの発掘調査で、2000棟近くの掘立柱建物が確認されています。斎宮は、その性格上、日本古来の建物様式で建てられており、瓦や礎石を用いない建物であったと考えられます。発掘調査でも瓦はほとんど出土していない事からも、裏付けられています。また、須恵器が少なく、日本古来の焼き物である土師器が多く使われているのも、同様の理由であると考えられます。
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Q斎宮跡で出土する土器の特徴は?
A宮殿であり官衙(役所)でもあった斎宮からは、祭祀や儀式に用いられたと考えられる三彩陶器や大量の緑釉陶器、官人が使用したと考えられる蹄脚硯をはじめとする硯、墨書土器といった遺物が出土します。なかでももっとも特徴的なものは、ひらがな墨書土器です。ひらがなは主に女性が使用した文字で、斎王に仕えた多数の女官が存在した斎宮ならではの遺物といえましょう。
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Q緑釉陶器について教えて?
A緑釉陶器とは、釉薬(うわぐすり)に鉛と銅を用いて焼かれ、表面が緑色をした焼き物です。通常の釉薬が1200度で焼かれるのに対し、鉛釉は800度で焼成できることから、日本で最初の施釉陶器には鉛釉が用いられました。奈良時代には唐三彩を模して緑・白・茶色を配した奈良三彩が生産されましたが、平安時代になり越州窯(中国浙江省)系青磁が輸入されるようになると、これを模した単彩の緑釉陶器が生産されるようになりました。緑釉陶器は、当初京都の洛北地域や愛知県の猿投窯で生産され、次第に丹波や近江・東濃地域などへ広がっていきました。斎宮跡からは、各地で生産された緑釉陶器が7000点以上出土しています。美しい色彩と光沢を放つ緑釉陶器は高級品であり、斎宮跡から東日本でも突出した量の緑釉陶器が出土していることは、斎宮がいかに重要で平安文化の栄えた場所であったかを物語っています。
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Q奈良古道とは?
A古代伊勢道は、古代の宮都があった奈良盆地と伊勢神宮とを結ぶ官道としての性格を帯びた道として成立しました。藤原京期~平城京期にあっては名張を分岐点として東行し、一志を経て山沿いを南下するルートでした。その後、平安京期には、鈴鹿を経るルートに替わりますが、一志以南は前代の道を踏襲しています。『延喜式』によれば、市村・飯高・度会の各駅家には、駅馬が中路の規定に近い8匹が配置されており、小路であった伊勢道が単なる志摩国への枝道ではなく、伊勢神宮への勅使の道、斎王参向路、あるいは斎王群行路として重視されていました。 この伊勢道は、史跡斎宮跡地内を両側に側溝をもつ直線道路として斜めに通っていたことが、20数次にわたる発掘調査で明らかとなっています。史跡外の丁長遺跡でもその延長部分が確認され、総延長は1.9キロメートルにも及びます。その規模は設計幅で溝心々間25大尺から26大尺(8.87メートルから9.22メートル)、路面幅22大尺(7.8メートル)が想定され、現在の2車線道路に匹敵するほどの大規模なものでした。斎宮歴史博物館と歴史ロマン広場とを結ぶ農道(遊歩道)は、この由緒ある伊勢道と全く重複しており、今日まで道として機能が引き継がれてきたことに驚かされます。博物館では、この道を親しみをこめて、「奈良古道」「奈良時代古道」と呼んできました。なお、西への延長部分は松阪市早馬瀬町、伊賀町の旧参宮街道を経て飯高駅家の候補地とされる駅部田まで直線的に延びることが地籍図等から想定されており、その設計思想は現代の高速道敷設に通じるものがあります。
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Q斎宮で木簡は出ないの?
Aこれまでのところ、斎宮跡で木簡は出土していません。これは、斎宮跡で木簡が使用されていなかったと言うことではなく、腐食して残らなかったためと考えられます。斎宮跡には、最盛期には500人を超える役人が働いており、「延喜式」という書物からも日本各地から多量の物資が送られていたことが記されています。従って、役所間で使われた文書や付札と用いられた木簡が斎宮跡でも使用されていたことは間違いありません。斎宮跡から木簡が出土しないのは、遺跡が水気の少ない安定した場所にあり、木質の物が腐食して残りづらいためと考えられます。ただ、低地部調査や井戸の底などから木簡が出土する可能性もありますので、どうぞ今後の調査にご期待下さい。
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Q斎宮の発掘調査ではどれぐらいの深さを掘るの?
A場所や遺構によって様々です。深いものでは数メートルも掘ることがあります。しかしながら斎宮跡の発掘調査は、遺構の情報を得るための最小限の調査しか行いません。ですから多くの遺構は底まで掘らずに途中まで掘って遺構を確認すると、そのまま埋め戻してしまいます。これは遺跡を保存していくためと、将来再び発掘調査ができるようにするためです。
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Q発掘調査を体験してみたいんだけど
A史跡斎宮跡での発掘調査は、年間通していろんな時期に行っています。博物館では、広大な史跡全体を含めて遺跡博物館(サイトミュージアム)という考え方で事業を行っており、発掘現場も展示室や体験施設の延長と考えています。発掘調査の体験をご希望される方には、夏休みの児童・生徒向けの発掘教室のほか、発掘調査の進み具合にあわせて、様々な形で発掘調査の見学や体験を受け入れていますので、博物館に一度ご相談ください。
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Q現地説明会って何。参加してみたいんだけど
A大切な国の史跡である斎宮跡。発掘調査はその在りし日の姿を解明するために行っていますが、調査の終了後は、遺構を保護する必要などから埋め戻してもとの状態に戻します。そこで、遺構の調査がおおむね終了する頃に、調査の成果を実際に現地で知っていただくために「現地説明会」を開催します。発掘担当者が見つかった遺構や出土したものの最新の情報をお知らせします。現地説明会の開催は、新聞等でも報道していただきますが、博物館のホームページでもお知らせしています。
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Q『鎌倉大溝」って何?
A史跡斎宮跡の北縁部をほぼ字界に沿いながら大溝が弧状に巡ることが、これまでの19次におよぶ発掘調査で部分的に明らかにされ、総延長は1.5キロメートル以上に及ぶことがわかっています。また、昭和23年(1948年)に米極東軍が撮影した航空写真にもその痕跡がくっきりと写っています。大溝の規模は、溝幅2.4メートルから3.5メートル、深さ0.9メートルから3.5メートルを測り、西方で広くて深く掘削されているに対し、東方に向かって徐々にその規模が縮小しています。大溝埋土からは最下層で平安時代末期、上層で室町時代にかけての遺物が出土していることからその成立年代は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてと推定され、鎌倉大溝と呼称してきました。なお、その用途については排水のためとか、廃絶に向かいつつあった斎宮寮の範囲を再度明確にする意味合いでの結界のためとか諸説ありますが定かではありません。 一方、斎宮村廃蹟図(原図天保八年二月乾覚左衛門控、神領五ケ村絵図)には、この鎌倉大溝と同様の場所に「ユウゼム堀」と称する堀が描かれているほか、貞享4年(1687年)正月、五か村(斎宮・多気川・有爾中・上野・鰭尾)の庄屋らが山田奉行所に差し出した口上書によれば、紀州領から再び神領となった五か村が水飢饉に見舞われ、祓川の水を引こうとしたが、砂地が多く水漏れのため掘削を中断したとあり、江戸時代に潅漑用の堀を開鑿した動きが見られます。確認された一部の鎌倉大溝の断面に近世の掘り直しが認められるのはこのことを反映したものと思われます。
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Q発掘調査の手順が知りたい
A史跡斎宮跡を発掘する場合、まず、どこの場所をどういう目的でどういう計画で行うかについて企画し、事前に現状変更手続きを行って文化庁の許可を得るところから始まります。そしていよいよ発掘調査となるわけですが、まず、発掘調査区を設定し、調査区内に4メートルごとに小杭を打ち、遺物や遺構を記録するための基準となる4メートル方眼マスを設定します。次に表土を20センチほど掘り下げたのち、徐々に黒っぽい色をした遺物包含層を掘り下げていきます。やがて黄褐色や赤褐色を呈する硬い粘土質の層(地山という)が見えてきたら三角鍬を使って丁寧に表面を剥ぎ取る作業を行い、土の色の違いや堅さなどから柱や溝の跡を探します。全体の遺構の様子がわかってきたら、この段階で4メートル方眼ごとの遺構略測図(40分の1)を書き、遺構に関する所見メモや遺物を取り上げる際の仮の遺構番号を与えます。その後見つかった遺構をハンドスコップや竹ベラを使って丁寧に掘り下げ、出土した遺物は、ラベルに出土地区、出土遺構仮番号、出土年月日を記録して取り上げます。こうして遺構全体が掘り終わったら調査区の全景や個別の遺構をローリングタワーというやぐらを立て、大型カメラを使って写真を撮ります。また、最近ではラジコンヘリコプターを飛ばして全景写真を撮ることが多くなってきました。そして第6系座標に基づく測量杭を3mごとに打ち、今度はこれを基準に20分の1の詳細な遺構実測を行います。こうすることにより年度が異なる何次にもわたる遺構図をぴったりとつなぎ合せることができるのです。また、遺物の出土状況が良好な遺構については、10分の1で描くこともあります。そして元通り埋め戻しを行ってようやく発掘現場の外作業が終了します。
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Q発掘調査した後、その場所はどうしているの?
A発掘調査が終わると、将来にわたって遺構を保護し保存していくために掘った土を埋め戻して元の状態に戻します。畑だったところはまたまたもとの畑に戻し、野菜を育てています。また、ふるさと広場や歴史ロマン広場といったいろいろなイベントに使用される芝生広場などとして整備され、なによりも博物館やいつきのみや歴史体験館・10分の1模型など斎宮跡のことを知ってもらうための施設がつくられています。
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Q博物館の下にも遺跡はあるの?
A博物館も史跡の中に建てられており、建設工事に先立って発掘調査が行われました。その結果、奈良時代の掘立柱建物や竪穴住居・道路と室町時代の村の跡が見つかっています。博物館の建物はこれら地下の遺構を壊さないように、深い基礎を用いず、厚い盛土の上に建物をのせるような構造のものになっています。
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Q斎宮にも古墳があるの?
A史跡北西部にあたる古里・塚山地区には5世紀後半から7世紀にかけて築造された塚山古墳群が所在し、現在47基の古墳が確認されています。斎宮歴史博物館の西側にある1号墳と正面にある2号墳は、昭和62年(1987年)、博物館の建設に先立って古墳の規模や形状・築造時期を確認するための調査が行われ、1号墳は直径21メートルの円墳、2号墳は一辺18メートルの方墳で幅約5メートル、深さ約1メートルの周溝が四方を巡っていたことがわかりました。
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Q斎宮の発掘調査で出土したものは、その後どうしているの?
A発掘調査で出土したものは、博物館に持ち帰り、全て収蔵しています。出土したものは、まず洗浄された後、破片を接合したり、石膏で復元したりします。残りの良いものや貴重な資料については、図面に描いたり写真を撮り、発掘調査の成果として、「概報」や「報告書」に掲載して広く公開しています。出土したものは、博物館に展示したり、収蔵庫に収蔵していますので、申請を行えば閲覧することも可能です。(貸出中や脆弱なものについては閲覧できない場合もありますので、詳しくはお問い合わせ下さい。)
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Qこれまでの斎宮発掘の歴史の中で、ベスト3の発見は?
Aベスト1は、光仁朝から桓武朝にかけて大規模な造営が行われた方格地割の発見ならびにこれに伴う内院(ないいん)区画が明らかとなったことで、博物館の誰しも異論のないところです。 ベスト2以下は、学芸員個々の考えにより色々な見方がありますが、古里遺跡で蹄脚硯(ていきゃくけん)が発見されたことを第2位にあげたいと思います。もし、この遺物が発見されていなければ、その後の斎宮跡の範囲確認調査に及ばなかったかも知れないし、斎宮の解明はおろか国史跡指定はもっと遅れていたかも知れません。 ベスト3は、奈良古道の発見をあげたいと思います。歴史地理学的手法により想定されていた都と斎宮、伊勢神宮を結ぶ道が、考古学的手法により実証された意義は大きいと考えます。なお、初期斎宮跡の中枢部発見も重要なことですが、今後の面的な調査が進んだ段階でベスト3に入ってこようかと思います。
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Q展示室に斎宮出土の土器編年のコーナーがあったけど、土器の編年って何?
A土器編年とは、時代ごとに使われていた土器を列べたもので、時期を判別する「物差し」のようなものです。自動車の形に流行があるように、土器の形にも流行や変化があり、その形や作り方、模様などを観察することで、その土器がいつの時代のものかが分かります。編年の規準となる資料は、地層や他の遺構との重複関係から遺構の時期が判別し易く、同時期の土器が多量に出土しているものを用いています。土器を多量に廃棄した土坑や井戸などが基準の遺構となる場合が多く見られます。
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Q斎宮の発掘調査で、最も解明したいことを3つあげて
A1 飛鳥時代から奈良時代にかけての「初期斎宮」と呼んでいる場所が、史跡の西部、博物館の南の近鉄線の付近にあるだろうということは、これまでの発掘調査で分かっていますが、まだくわしい構造は解明されていません。 2 平安時代の斎宮を形づくっている方格地割については様々なことが分かっていますが、それぞれの区画に与えられた実際の役割については、さらに調査を進めていく必要があります。 3 平安時代の後期から鎌倉時代にかけて、方格地割の構造が崩れ出します。この時期の斎宮については、まだほとんど実態が分かっていません。

斎宮研究・そのほか

Qなんで斎宮を「幻の宮」と呼んでいるの?
A14世紀後半、鎌倉時代の中頃に斎王の群行は途絶え、南北朝時代に入ると斎王制度自体がなくなってしまいます。しかし、斎宮という名は、地名として室町時代の文献にも出てきます。つまり、斎宮がかつてこのあたりにあった、ということだけは伝えられてきたわけです。そして斎宮に関係する言い伝えが残るけれども、具体的にどこにあったかわからない、ということから、いつともなく「幻の宮」と呼ばれるようになったのです。
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Q斎宮廃絶後、斎宮があった場所はどうなったの?
A発掘調査では、南伊勢地方で一般的な煮炊きの土器などが出土しており、周辺の集落と変わりのない様子がうかがえます。また、博物館南ははじめ「古里遺跡」と言われていましたが、これは現在は参宮街道沿いにある竹川集落が昔そこにあり、「竹川集落のふるさと」であることが地名として残ったと言われています。
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Q江戸時代の斎宮の地はどんな様子?
A江戸時代、諸街道の整備が進み、斎宮を通っていた古来からの街道も、庶民の伊勢参宮の道へと変貌しました。参宮ブームのなかで、斎宮は宿場町として機能し、街道沿いには旅籠や茶屋、土産物屋などが建ち並んでいました。街道から少し外れたところに斎王の森があり、斎宮の地名とともにその名残を残していたことが、当時の地誌『伊勢参宮名所図会』からもうかがえます。
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Q松阪市にある「忘れ井」は斎宮と関係があるの?
A鳥羽朝のあい(「女」扁に「旬」)子内親王の群行の時、斎王の仕えた女房の甲斐が、都との惜別の歌を詠んだといわれている跡です。ここは斎王群行時の頓宮のひとつ「一志頓宮」跡の伝承地でもあります。なお松阪市内にはここを含め近辺に、「一志頓宮」跡の伝承地が2箇所あります。
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Q斎王の道、頓宮を探訪したい
A斎王の伊勢への下向時や都に戻る際に設けられた頓宮の位置は、現段階では定かでありません。もし、可能性を求めて旅をするならば、「勢多頓宮」は近江国府内にあったといわれており、瀬田の唐橋付近、建部神社の東側にある「近江国衙跡」の石碑周辺と考えられます。「甲賀頓宮」は野洲川沿いの斎神社(湖南市菩提寺)が候補地としてあげられてきました。しかし、近年、甲賀駅家や頓宮に関連した施設と考えられる北脇遺跡の発掘調査成果により、甲賀市水口町西部付近に所在したという説が有力視されています。「垂水頓宮」については、甲賀市土山町の国道1号線沿いに「頓宮」という地名が残り、茶畑の中に垂水頓宮跡の石碑が建てられ国史跡となっています。「鈴鹿頓宮」はJR関駅の北約800メートルほどのところに赤坂頓宮の碑があります。
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Q斎藤さんが斎宮と関係があるって本当?
A斎藤氏とは、本来、「斎宮関係の役職についた藤原氏」の意味です。文献からわかる斎藤氏の古い例は、平安時代後期に北陸地方に現れる斎藤党と呼ばれる武士団ですが、この斎藤氏の系図には、10世紀頃に藤原叙用(としもち)という人物が斎宮頭(斎宮寮の長官)になったので斎藤を名乗る、としています。叙用が仕えていた斎王は、斎宮女御の前後の人かと思われますが、誰かについては、明確な決め手はありません。
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Q斎宮を知るにはどの本を読むのがベスト?
A斎王制度については、榎村寛之の『伊勢斎宮と斎王』(2004年発行 塙書房)が読みやすく入門編といえます。歴代の斎王については、山中智恵子さんの『斎宮志』・『続斎宮志』(いずれも絶版)などが詳しいでしょう。斎宮跡については、泉雄二の『伊勢斎宮跡』(2006年発行 同成社)や駒田利治さんの『伊勢神宮に仕える皇女 斎宮跡』(2009年発行 新泉社)をご覧いただければよいかと思います。
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Q式年遷宮は廃絶しなかったのに、斎宮制度はなぜ廃絶したの?
A一言でいえば、式年遷宮は伊勢神宮に不可欠であったが、斎宮制度はそうではなかったということです。どちらも古代には、朝廷(中央政府)が維持していたものです。しかし、武士の時代となり、朝廷の力が衰えると両者の維持は困難になっていきます。斎宮とは、伊勢神宮の祭祀に朝廷がとってつけたようなおまけの制度です。ですから、神宮の重要な祭祀である式年遷宮は、一時中断しても復活しましたが、斎宮は廃絶してしまったのです。
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Q斎宮のことを研究したいんだけど?
Aまず『明和町史 斎宮編』を読むことをお勧めします。斎宮の文献史料は、900年までの分については、『斎宮編年史料集Ⅰ、Ⅱ』として刊行しています(Ⅰは品切)。901年から950年までは『斎宮編年資料集Ⅲ』として、『斎宮歴史博物館研究紀要18』に収めています。以後の史料について、『古事類苑』の神祇部がまとまっています。考古学的な情報は『斎宮跡発掘調査報告Ⅰ』(2002年)と、毎年刊行される『斎宮跡発掘調査概報』に集成されています。また、博物館のホームページでは斎宮関係の論文一覧が紹介されています(2004年まで)。これらの情報をもとに、自分の興味に従って研究を進めて下さい。
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Q博物館に行けば、研究図書を見ることが出来るの?
A博物館の図書ホールにある図書については、受付で申し出ることによって自由に閲覧することができます。斎宮に関する論文を集めたものも資料として置いていますが、図書や論文のコピーは受け付けていませんのでご了承下さい。
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Q明和町とその周辺にある斎宮関係地を教えて
A 史跡内については、「Web版斎宮今昔」を参照してもらいたいと思います。史跡外には、円融朝の斎王・隆子女王の墓(馬之上)、斎王の禊の地・尾野湊跡(大淀)、伊勢物語ゆかりの業平松(大淀)、斎宮へも土器を供給していたと考えられる水池土器製作遺跡(明星)などがあります。町外については、斎王が参宮する際に宿泊した離宮院跡(伊勢市小俣町)、斎宮女御・徽子女王ゆかりの近長谷寺(多気町長谷)などがあります。
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Q「斎王まつり」って何?
A地元明和町で、昭和57年(1982年)に婦人会が中心となって始められました。当初は子供斎王のみが選ばれていましたが、現在は成人の斎王をはじめとする参加者を全国公募しています。6月の第一土曜に前夜祭、日曜に都から斎宮への行列「斎王群行」を再現した行列を行い、来訪者を王朝ロマンへと誘っています。
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Q自分の家の近くに「斎宮」という地名や神社があるんだけど、関係があるの?
A関係がある可能性もあります。その地が斎宮寮の荘園、斎宮寮領であったり、斎王であった内親王の家領であった可能性です。また、野宮跡とされる京都市右京区の斎宮神社など、野宮や頓宮に関係する可能性もあり得ます。一方で、清浄にして神に仕えるお宮(神社)という意味で、一般名詞としての「斎宮」もありえます。ちなみに、神社にある斎館や斎島(厳島)のように、斎(いつく)という言葉は、神さま関係に比較的多く使用されます。
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Q祓川ってどんな川?
A櫛田川の支流、斎宮の西を流れる、多気郡明和町藤原付近で伊勢湾に注ぐ川です。『延喜式』には「多気川」とあり、斎王群行の際に斎王が御禊をする「六処の堺の川」のひとつで、また月次祭の前月晦日や、帰京の際にも斎王はここで禊を行います。現在もその美しさは「日本の重要湿地500選」に入るほどで、護岸がほとんどされておらず、昭和30年代の自然が残っているといわれています。

その他

Q「斎王群行」の映像で鈴鹿の頓宮で斎王一行を迎えた赤い服の人と斎宮で待っていた人が同じなのはなぜ?
A役者さんが足りなかったから、でもありますが、斎王の群行行列はその国の国司が先導する決まりになっていました。伊勢守橘兼懐が同行したとは明記されていませんかが、近江では国守藤原隆佐(本編ではカット)が先導しています。その解釈で、伊勢守が斎宮まで来ていたことにして、同じ人を使いました。つまり待っていたのではなく、先導していた国守が斎宮に入るのを断られ、すごすご帰ってきた場面なのです。
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Q「斎王群行」の映像で出てくる金の菓子が入った銀の餌袋について詳しく教えて。お菓子の中身は?
Aこれは原資料『春記』に、「銀の餌袋(えぶくろ)に金の菓子を入れた物」として出てくる物を再現したものです。餌袋とは本来、鷹狩に使う鷹の餌を入れるために鷹飼が腰につけた袋です。斎王は鷹狩はしないでしょうから、形を真似た銀の細工物と考えられます。とすれば金菓子も細工ものと思われます。この時代に菓子、というと普通は果物なので、金の果物の、ということで、熟した橘(ミカン)をイメージしました。
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Q「斎王群行」の映像で、藤原資房が日記をかいている場面があったけれど、バックに鳥の声(スズメ?)が聞こえるのは何か理由があるの?
A藤原師輔(道長の祖父)が遺した『九条殿遺誡』という書物に、貴族は朝起きてから朝食の粥の間に日記を書け、とあります。正確な時計のない平安時代の朝は、夜明けとともに(またはその前から)はじまります。従って日記を書いている時間には、朝の光が刺していてスズメが鳴いている、という演出なのですがいかがでしょう。
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Q「斎王群行」の映像で、斎宮に到着した斎王一行が「日柄が悪い」という理由で斎宮に入れなかった場面があったけれど、それじゃあ一行はどうしてたの?
A『春記』によると斎王は、勅使が泊まる房に入ったとしています。著者の藤原資房や女房たちは、急きょ借り上げた家に入りましたが、草廬(草葺きのあばらや)のようだった、と記されています。しかも先に斎宮に入っていたはずの先発隊は全く何の準備もしておらず、資房は「全て最も哀れなことだった」としています。このアクシデントは、一行にとって全く予想外だったことがわかります。
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Q「今、よみがえる幻の宮」の映像で、「平安ことば」がつかわれているけれど、本当にあんなふうに話していたの。何をもとに復元したの?
A平安言葉は、「宇津保物語」や「栄華物語」などの日常会話をもとにシナリオを作成し、古代言語学研究者、奈良女子大学(当時)の遠藤邦基先生の考証で発音を再現したものです。主な指導は、「今の日本語と違い、一音一音切るように」「ず(zu)」は「づ(du)」に、「つ」は有気音で、「はひふへほ」は「ふぁ・ふぃ・ふ・ふぇ・ふぉ」、基本のアクセントは京言葉、などでした。実際の話すスピードは現在の4分の1ですが、映像では2分の1ぐらいにしています。
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Q展示室にある400分の1の斎宮の模型で、瓦葺きの建物が全くないのはどうして?
A斎宮で発掘調査をしていると、ほとんど見つからないのが瓦です。建物を取り壊す時には破損した瓦はたいていその場所に埋めますから、斎宮の建物には瓦が葺かれていなかった、と考えられます。また、平安時代後期に編纂された『新任弁官抄』という文献には、斎宮の内院は檜皮葺き、中院、外院は板葺きや萱葺きとしており、瓦は使われていなかったことは文字記録からも裏付けられています。
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Qなぜ、群行と帰京のルートが異なるの?
A平安時代の斎王の群行ルートは京のある山城国から、近江国を通って伊勢国に入るというものでしたが、帰京の際には、天皇の交替の時には同じく近江路を通り、天皇が亡くなったり、斎王の身辺に不幸があった際には、伊賀、大和を経るルートを取っていました。このルートだと平城京の跡を通過することになります。凶事の際には、奈良時代以来の伝統ある路を、より格式を保って帰京することが望まれたのではないでしょうか。
ページID:000054340