斎宮の様子
発掘でよみがえった斎宮
昭和45年(1970)、現在博物館の建つ古里地区(ふるさとちく)で発掘調査が行われ、長い間埋もれていた斎宮が再びその姿を現しました。昭和54年には、東西約2キロ、南北約700メートル、面積約137ヘクタールが国の史跡(しせき)に指定され、現在も計画的な発掘調査が続けられています。
これまでの調査の結果、斎宮では、奈良時代後期になると史跡東部で、区画道路により碁盤目状に区切られた方格地割(ほうかくちわり)が造営され、建物が整然と建ち並んでいたことが判明しています。この地割は、約120メートル四方の区画が東西7列・南北4列並んで構成されるという大規模なものでした。
斎宮寮 さいくうりょう
斎宮寮は、斎王に仕えるため、斎王が群行するたびに置かれた臨時の役所です。
事務を総括する斎宮寮を中心に、神事を司る主神司、財政・食事・警備・医療などの特定の役割を担う13の司で構成されます。寮の官人たちは、都から斎王に伴ってきた人々を含め500人余りから成り、地方の国府などよりはるかに大きな組織でした。また、斎王の身の回りの世話をする女官が多いのも特徴で、命婦(みょうぶ)や乳母の他、女孺(にょじゅ)たちがいました。
文献史料によると、斎宮は、斎王の住む内院、斎宮寮頭(長官)が執務する中院、その他の寮の建物がある外院の3区画に分かれていました。そのうち内院と中院は檜皮葺き、外院は萱葺きや板葺きで、寮のまわりには大垣と溝が巡り、松や柳が列植されていたようです。
斎宮は、平安時代前期の15年間、度会郡の離宮院(現伊勢市小俣町JR宮川駅付近)に移った時期を除いて、南北朝時代に廃絶するまでこの地に置かれました。
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斎宮で使用された品々
祭祀に必要な品々、斎王の身の回りに必要な品々、斎宮寮の維持に必要な品々は諸国や伊勢国内から税として集められました。これらの中には、発掘調査により出土したものもあります。
美濃国で焼かれ、斎宮寮に納められた「美濃」施印土器などはその例です。その他にも、土師器・緑釉陶器・灰釉陶器をはじめとする種々の土器、役所の事務運営に欠かせない硯、官人が正装の際に帯びた石帯(ベルト)に付けられていた飾り石、役所名の記された墨書土器など、さまざまな資料が出土しています。