第36話 小さな大発見-ひらがないろは歌の墨書土器 その2
さて、ひらがな習書の「いろは歌」が斎宮から出土したことは、斎宮の歴史についてもさらに興味深い問題を提起するのです。
このひらがなは誰が書いたのでしょう。
「いろは歌墨書土器」が書かれた平安時代後期の斎王には、次のような人がいます。
1078年卜定 白河朝 やす(「女」へんに「是」)子内親王(3才) 娘
1087年卜定 堀河朝 善子内親王(12才) 異母姉妹(白河の娘)
1108年卜定 鳥羽朝 あい(「女」へんに「旬」)子内親王(16才) 叔母(白河の娘)
1123年卜定 崇徳朝 守子女王(23才) 祖父(堀河天皇)の従姉妹(白河の姪)
この時期の斎王は、比較的長期に亘って在任する人が多く、特に善子内親王以降は、いずれも16年から18年も斎宮に滞在しています。これは、ちょうど白河院政期(1086年から1129年まで)にあたり、天皇が幼時に即位し、青年になると退位する、という形を取っていたため、一人当たりの在位期間が比較的長かったことや、政界が割合に安定しており、天皇と斎王の決定権がともに白河院にあったらしいことなどが原因として考えられます。
やす子内親王は帰京時12歳、後に郁芳門院という、最初の未婚女院(結婚せずに天皇の義母としてお后の位をもらい、その後、元お后がもらう女院号までもらった人、皇族女性がなる)となった人で、白河天皇の愛娘として知られています。
次の善子内親王は、白河院と承香殿女御藤原道子(道長の曾孫、贈太政大臣藤原能長の娘)の娘という身分の高い斎王で、しかも斎宮には、母の道子が同行しています。斎王の母の斎王との同行は、斎宮女御徽子女王以来のことです。藤原道子は能筆家だったようです。
次にあい子内親王は白河上皇の隠し子で、占いで実子と判定し、斎王となった人です。この人の群行の途中、甲斐という女房が壱志頓宮で「別れ行く都の方の恋しきにいざむすびみむ忘れ井の水」と詠み、『千載和歌集』に採られています。斎宮関連の歌の中でもかなり有名なものの一つです。この他にもこの時期には、「前斎宮○○」と言われる、元の斎王に仕えた女房たちの歌が見られ、その中の幾人かは実際に斎宮に赴いていたようです。
そして守子女王については、女王で天皇との血縁が遠いこともあってか、あまり詳しい記録が残っていません。
こうして見ると、なかなか面白い記録の残っている斎王もおり、これからの土器の研究や、シンポジウムの成果を踏まえて、どの人の頃と判断されるのか、ますます興味が引かれる所です。
さて、鎌倉時代に書かれた擬古物語『わが身にたどる姫君』は、平安時代を舞台にした歴史物語ですが、その中に伊予、常陸と呼ばれる伊勢出身の女房、つまり斎宮で雇用した女房が出てきて、京に帰った元斎王に仕えている、という一節が出てきます。斎宮で働く女房の中には、地元の有力者の娘が働きに来た、という人もいたからこそ、こういう話もできたのでしょう。彼女らが都の文化に触れて、ひらがなを練習し、斎王の側近になり、斎王が都に帰っても前斎宮家の女房となる、ということも現実にあったのではないか、とも考えられます。
平安時代には、地方の有力者の娘でも、独学で勉強をする以外、教育を受ける機会などはほとんどありませんでした。しかし、都から来た女官や、時にはもっと高い身分の女性までいる斎宮には、一種の女子校的な雰囲気があり、その中で都から来た女房たちが、当時の都での流行りになっていた「いろは歌」を書いて、地元出身の若い娘さんたちの手本にしてやる、なんてことがあったのかもしれませんね。
とすれば、この「いろは歌」は、斎宮が地域の女性たちの文化的なセンター機能も持っていたことを教えてくれているのかもしれません。
4月29日に行われたシンポジウムでは、土器に字を書く意味、いろはの読み方、その時代など、斎宮のいろは墨書土器が持つ意味について様々な問題提起が行われ、多くの議論が行われました。
正式な報告は、それらの成果も踏まえて出されることになります。これまで挙げてきた色々な問題にどういう答えが出されるか。
どうぞお楽しみにお待ち下さい。
榎村寛之