第33話  柳と松のある斎宮の風情

 春です。新年からこちら、更新が止まっていて、ふと気がつくと年度も代わり、桜も終わろうとしていました。休眠明けの斎宮千話一話です。
 先日京都鴨川沿いを歩いていると、川面にしだれ柳の新芽と桜の花が写り、春爛漫の風情となっていました。
 こういう時に口をつくのが
  見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける
 という素性法師の古歌です。『古今和歌集』56番に
「花ざかりに京を見やりてよめる」という詞書とともに採られていて、春の京を代表する美しい歌として知られています。
 さて、そのことについて最近知った話。
 柳というのは、現在でいう「しだれ柳」のことで、これは日本在来の植物ではないそうです。
 現存する『律令』は、奈良時代の『養老律令』ですが、その「営繕令」の「堤内外条」には、護岸工事の際には堤の上に楡や柳を植えよとあります。つまりこの頃から、川沿いを中心に植えられるようになったらしいのです。
 たしかに、春先に白い花をつけるネコヤナギなどは自然に見られますが、天然のしだれ柳というのはあまり見たことがないように思います。とすれば、8世紀から9世紀までの人にとって、しだれ柳は新しい外来の植物で、ちょうど現在のポプラやプラタナスのような感覚で広がっていったのかもしれません。
一方、奈良時代に「花」といえば、桜より梅を指す言葉でした。梅もまたこの頃に入ってきた外来植物だったことが知られています。とすれば、中国の都城に倣った平城京の邸宅では、桜よりむしろ梅が愛好されていたとも考えられます。平城京の中にどれほどの桜があったのかはよくわかりません
とすれば、「見渡せば」の歌の「柳桜をこきまぜて」、つまり異国的なしだれ柳と伝統的な桜が入り交じる、というのは、平安京ならではの風情だったと考えられます。古来愛好された桜を、エキゾチックな都市を代表する柳とともに愛でることは、平安京の貴族に独特の感性だったのかもしれません。

 さて、斎宮にも柳はなくてはならない植物として知られています。平安時代の斎宮の基本法、10世紀初頭に編まれた『延喜斎宮式』には、「溝隍(ほり)四辺には、松と柳を列植せよ」という記述があるのです。つまり、斎宮の区画、方格地割という呼び方をしている奈良時代末期から平安時代初期頃に造られたとされる碁盤目状区画の回りには、松と柳が植えられていた、とされているのです。そして現在、斎宮駅から博物館に至る道の一部にしだれ柳の並木があるのは、このイメージを再現したものです。
 しかし、この時代にしだれ柳の並木がどこにもあったものとは考えにくいのです。つまりしだれ柳は、京のような企画性で造られた斎宮の外周を象徴する、あるいは斎宮に暮らす人々には、都を思い起こさせる植物だったのかもしれません。
 しかし、斎宮では、柳は桜の組合わせは見られません。柳の対になるのは、松なのです。
そして松も、古来親しまれた樹木の一つでした。
 いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ぬらむ(『万葉集』1-63)
                    山上憶良
大伴の御津は住吉の津(現・大阪市住吉区)のことと考えられています。遣唐使として唐からの帰路、山上憶良が詠んだこの歌は、『万葉集』の早い段階から、美しい松林が日本の海岸の風物詩だったことを示しているのです。
 立ちわかれいなばの山の峰におふるまつとし聞かば今かへりこむ(『古今集365』)
                       在原行平(百人一首採録歌)                                                 
 松は「待つ」の掛詞としても広く使われています。斎宮の場合でも、都で待つ人のことを思い起こさせる木だったのかもしれません。
 このように、柳と松の並木もまた、柳と桜と同様に、人工的な空間ならではの景観だったと思われるのです。
 このたび史跡整備が行われ、平安時代の建物が再現される予定の区画は、字(あざ)名を、「柳原」といい、斎宮寮の中心の一角と考えられています。柳がどこにでもある植物ではなかったとすれば、この名前もまた、斎宮の都会的な雰囲気を今に伝える名前なのかもしれません。
 その柳原の整備予定地といつきのみや歴史体験館を結ぶ向かう幅12メートルの古代道路跡がこのたび再現され、本体の公園より一足早く公開されました。平安初期の斎宮の、都会的な雰囲気とスケールをうかがわせる新しい名所が、またひとつ増えたことをお知らせいたします。

榎村寛之

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