第30話  最後の斎王の母をめぐる不思議な話

 阿野廉子(あのれんし)【1301から1359】という女性がいます。後醍醐天皇の妃の一人で、新侍賢門院(しんたいけんもんいん)の号を受けた女院です。後村上天皇の母でもあるので、国母となりました。ただし南朝方の。
 そして、最後の斎王・祥子(さちこ)内親王の母でもあります。
 彼女は結婚して以来、ずっと後醍醐天皇の傍らにいた人でした。もともと皇太子時代の妃・西園寺嬉子(さいおんじきし)に付いてきた女房だったのですが、後醍醐の寵愛を受けるようになり、男三人女二人の子供をもうけました。その寵愛ぶりから、建武の新政を崩壊させた悪女とも言われるのですが、後醍醐の行く所、隠岐島から吉野の山奥まで同行し、息子の一人を後村上天皇として即位させたのですから、その行動力たるや驚くべきものといえるでしょう。
 その第一皇女が祥子内親王です。祥子は斎王になったものの、建武政権の崩壊により、群行できないまま野宮から退下したと考えられています。しかし祥子がどこまで両親と同行したのかはよくわかっていません。建武三年【1336】六月に、湊川の合戦で新田・楠木軍を破った足利尊氏が京都を制圧しており、おそらくこの時に野宮も接収された可能性が高いと思われます。その後、後醍醐天皇は幽閉されていた光厳院を連れ出して脱出、吉野で再起を図りますが、娘も連れて逃げる余裕はなかったと思われます。というわけで、祥子の動静については、後に保安寺という尼門跡に入るまでは確たる史料が残っていないようです。
 一方、母の廉子は、いつのまにか都を脱出して吉野に入っていましたから、その時に娘を同行していた可能性もあります。しかしここで取り上げるのは祥子ではなく、南朝にかかわる説話をまとめた『吉野拾遺』という本に見られる、廉子に仕えていた伊賀局という女房のお話です。
 この伊賀局は、新田義貞の家臣、篠塚伊賀守重広(しげひろ)という武士の娘だと伝わっています。篠塚は建武三年【1336】に三井寺を攻めた時に、深さ二丈【約6メートル】ばかりの堀を渡るため、表面の幅三丈【約9メートル】、長さ五、六丈【15から18メートル】もあるという卒塔婆を引き抜いて橋にするなどの大力のエピソードが伝わる武辺者でした。
 その娘である伊賀局も怪力だったそうで、高師直が吉野の宮廷を攻め、阿野廉子が崖に追い詰められた時、伊賀局は巨木の枝を折り取って橋にして逃がしたといいます。父から娘に大力のDNAが受け継がれていたわけですね。
 さて、時は正平二年【1347】、後村上天皇の母として新待賢門院となった廉子の吉野の御所に、化け物が出るという噂が立ちました。それは、蟇目(ひきめ)【鏑矢(かぶらや)の一種で、音を鳴らして悪いものを祓う】などの呪術によって一旦は納まりました。
 しかし、六月十日頃の大変暑い夜のこと。伊賀局が涼を求めて庭に出てみると、月光が大変明るかったので、
 「涼しさをまつふく風に忘られて袂にやどす夜半の月影」
と、誰も聞いていないだろうと一人口ずさんでいると、松の梢の方よりしわがれたような声で、

 「唯よく心静かなれば即ち身も凉し」
という古い漢詩の一節を言った者がいたのです。伊賀局は、怪しい奴、と見上げれば、そこには何と、まるで鬼かと見まごうばかり、翼が生えて眼はらんらん、勇猛な武士でも肝を潰すような化け物がいたのです。
 しかしそこは流石に伊賀局、少しも慌てることなく、
 「本当にそのようなことですね。それはそれとして、あなたは何者ですか。不審な者、お名乗りなさい。」と呼びかけます。
 問われて怪しの者は答えました。
 「私は藤原基任(ふじわらのもととう)と申します。女院様のために命を捧げたのですから、せめて戦死した所をたずねていただければと思っています。しかしそれさえございませんので、大変罪深い。このような姿になって苦しさがますます募っています。お恨みしようと思い、この春より後ろの山におりましたが、御前には怖ろしくて出ておりません。この由を申し上げていただきたいのです。」
 聞いて伊賀局は、
 「なるほど。そのことはうかがっています。しかしそれはお恨みするようなことでしょうか。世が乱れているのでつい日が立ってしまったのでしょう。それなら私が申し上げましょう。どのようなお経がいいですか。」
 すると藤原基任は、
 「弔いには法華経ほどいいものはありません。」と告げ、帰るというので、
 「どこに帰るのですか」と問うと、「露と消えた野原に」と言い置き、光が北をさして飛んでいきました。
 伊賀局が廉子にかくかくしかじかと申し上げると、確かに覚えはあるとのことでしたので、翌日より吉野吉水院の法師に二十一日間法華経の供養を行わせた所、それからは不思議なことは起きなくなったといいます。きっと成仏したのでしょう。それにしても大層頼もしいこと。
 伊賀局についての話は以上のようなものです。
 大力で勇猛な女性というのは、実は説話の中には時々見ることができます。古くは平安時代の『日本霊異記』に、美濃国で人が狐と交わって子を得たが、その子が大力で早く走り、狐直(きつねのあたえ)と名乗ったという話や、その子孫に市場を荒らさせて往来の妨げをした「美濃狐」という大力の女性がいたという話が出てきます【上巻の2と中巻の4】。
 どうやら古くは、大力は家系として受け継がれ、その元々には不思議な由来があるというパターンがあったようです。『今昔物語』の説話には、元興寺にいたと伝える怪力の僧・道場(どうじょう)法師の孫娘がやはり怪力だったという話があり、怪力は娘など女性の子孫に遺伝するという話のパターンがあったのかもしれません。そして篠塚重広から伊賀局へ怪力が遺伝したという話は、こうした古い話形を踏まえた伝説なのかもしれませんね。
 そういえば小泉八雲の『怪談』に、次のような話があります。梅津忠兵衛という武士が、ある女から赤ん坊を預かります。ところがこの赤ん坊が次第に重くなり、やっと耐え抜いた所に女が帰ってきます。女はこの地の産土神で、氏子の一人が難産のため苦しんでいたので助けていた。預けた赤ん坊はその難産の、まだ産まれていない子であったと言います。そして忠兵衛が抱いていてくれたので無事に産まれたと感謝し、忠兵衛に大力を授けたという話です。この種の話は、幕末頃には、秋田藩佐竹家に仕えた妹尾五郎兵衛兼忠(せのおごろべえかねただ)という武士の話として広く知られており、女神は産女とされることもあるようです。どうも女性と大力には長くて深い関係があるようです。
 江戸時代には、伊賀局を題材を使った浮世絵も何点か残されており、それなりに有名な話だったようです。そして近代には、美人画を得意とする伊勢に生まれた女流画家、伊藤小坡(しょうは)【1877から1968】が、「伊賀の局」という作品を描いています。夏の蒸し暑い夜に、前栽にたたずむ美しい女性。上空には不吉な黒雲がという、独特の趣をもつ作品です。現在この絵は、伊勢市にある小坡美術館が所蔵しています。
 
 最後の斎王、祥子にも関わる秋の特別展『後醍醐‐最後の斎王とその父‐』は10月8日(土)から11月13日(日)まで開催いたします。

榎村寛之

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