第29話  伊勢の海の歌を贈られた貴族、藤原為光-企画展『海をこえてやってきた!』によせて-

 斎宮をはじめ三重県は、東を伊勢湾に開いているので、海岸線にはいくつもの港ができて、たくさんの物資が行き来をしていました。
 斎宮歴史博物館では、伊勢志摩と、海で結ばれた他の地域との交流をテーマにした企画展『海をこえてやってきた!』を開催いたしております。
 さて、その数々の港の中で、津市の阿漕浦(あこぎうら)、松阪の一志浦(いちしうら)、伊勢の二見浦(ふたみうら)などとともに、斎宮に近い大淀は、特に有名な所だったようです。『伊勢物語』に、狩の使として斎宮を訪れた在原業平が東の方、尾張国に旅立ち、また帰ってきた港として描かれ、その後も「歌枕」として知られるようになるのです。
  大淀の松はつらくもあらなくにうらみてのみもかへる波かな(『伊勢物語』)
  大淀の浦たつ波のかへらずは変わらぬ松の色を見ましや(斎宮女御)
 その他に、かの藤原定家は、建保(けんぽう)三年(1215)十月、順徳天皇の命により詠進された、全国の歌枕を読み込んだ『内裏百首(だいりひゃくしゅ)』【『内裏名所百首(だいりめいしょひゃくしゅ)』など別の呼び方あり】で、
  つらからぬ松も恋ふらく大淀の霞ばかりにかかる浦波
という歌を詠んでいます。一目で『伊勢物語』の歌の本歌取りなのがおわかりいただけるでしょう。大淀はそれほどに有名な地名だったのです。
 さて、歌枕を詠む名所歌は、現地に行かずに詠むものなのですが、大淀を見ずに詠んだ歌のかなり古い例にこういう歌があります。
  大淀のみそぎ幾代になりぬらん神さびにたる【「にけり」とも】浦のひめ松
(斎王の大淀の禊はどのくらい続いてきたのだろう。浦の松がすっかり古色を増して、神々しくなってしまったことよ)
 これは、『拾遺(しゅうい)和歌集』に採られている歌で、作者は源兼澄(みなもとのかねずみ)【955から?】といいます。斎宮女御【929から985】より少し後の世代の歌人ですね。祖父が光孝天皇の孫で三十六歌仙の一人、藤原公忠(きんただ)、叔父がやはり三十六歌仙の一人、源信明(みなもとのさねあきら)という中流貴族の歌人です。
 この歌は「恒徳公家(こうとくこうけ)の障子」に書かれた、「大淀の斎宮のみそぎしたるところかきたる」絵に添えられたものとのことで、永観三年【983】の作とされています。

この恒徳公というのは、当時大納言だった、後の太政大臣藤原為光(ためみつ)【942から992】のおくり名【漢風謚号(かんぷうしごう)】です。為光は右大臣藤原師輔(もろすけ)の息子で、兼家の異母弟、道長の叔父にあたります。その娘のよし子【「よし」は、りっしんべんに「氏の下に一」。(下の注参照)「しし」とも読む】は花山天皇に愛され、外戚として政界の重鎮となるはずでした。

(注)よし子の「よし」の字

(注)よし子の「よし」の字

 ところがよし子は急逝し、そのショックで花山天皇は出家して退位してしまいます。そのため、為光の野望が実を結ぶことはありませんでした。
 その後、『栄華物語』によると、花山上皇はふたたび為光の娘、つまりよし子の妹の四の君に恋をします。ところがお忍びで為光邸に向かう上皇一行に何者かが矢を射かけ、上皇は袖を居抜かれます、さらに『百錬抄(ひゃくれんしょう)』という史料では、狙撃者たちはお付きの童を射殺し、その首を持ち去ったとしています。その狙撃者が内大臣藤原伊周(これちか)の弟・隆家だったというのです。伊周は四の君の姉、三の君に通っていて、上皇を恋のライバルと勘違いをしたのでした。この上皇狙撃事件に激怒した一条天皇は、伊周の逮捕・厳罰を命じ、伊周は妹の中宮・藤原定子の所に逃げ込み、結局取り押さえられます。そして大臣の位を剥奪され、最終的には大宰府へと左遷されてしまうのです。
 後に「長徳(ちょうとく)の変」とも言われるこの政変は、摂関家の中心が藤原道長に移る大きな画期になったのですが、そのきっかけは藤原為光の二人の娘をめぐる恋の勘違いだったのです。
 このように九世紀後半の政界に関わりの深い藤原為光。彼のために描かれた屏風に伊勢の大淀の歌が書かれたのには、どんな理由があるのでしょうか。それは彼の母親に由来しているようです。
 藤原為光の母は、元・斎王だった雅子内親王【910から954】なのです。醍醐天皇の皇女・雅子内親王は、醍醐の寵臣藤原時平の長男だった敦忠(あつただ)と恋仲でしたが、斎王として伊勢に下ることになり、二人は深い哀しみの歌を贈答しています。ところが、雅子が群行する時、もう一人の男が歌を贈っていました。時平の弟である忠平の次男、藤原師輔です。師輔はこの時すでに雅子の姉妹の勤子(きんし・いそこ)内親王を妻にしていましたが、その勤子が若くして亡くなった後、正妻となったのは斎王の務めを終えた雅子でした。つまり敦忠は、恋人を横取りされてしまったのです。
 雅子内親王は師輔との間に三人の男子と一人の女子に恵まれます。長男は藤原高光(たかみつ)【939?から994】といい、歌人としても知られた人物ですが、右近衛少将(うこのえのしょうしょう)だった23才の時、突然出家してしまいます。高光が生まれた段階で師輔には、糟糠の妻である藤原盛子(せいし)との間に、伊尹(これただ)、兼通(かねみち)、兼家(かねいえ)の三人の男子がいました。彼らが後に摂政・関白になったことから、すでに高光の前途は閉ざされていたともとれそうですが、少し事情は違うようです。

 藤原高光が右近衛少将になったのは22才の時、これに対して伊尹は25才で左近衛(さこのえ)少将、兼通は31才で左近衛少将、兼家は少将には任官していませんが、右兵衛佐(うひょうえのすけ)任官が23才、一方高光は20才で左衛門佐(さひょうえのすけ)に任官しています。このように高光は、出家さえしなければ、異母兄たち以上のスピード出世が期待されていました。
 そして、高光の次弟が恒徳公為光なのです。兄の急な出家の結果、為光は雅子内親王を母とする藤原氏の実質的な家長の立場をしょいこむことになりました。為光も18才で左兵衛権佐(さひょうえごんのすけ)、21才で右近衛少将、そして29才で参議(さんぎ)として公卿(くぎょう)の仲間入りをしています。参議昇進は伊尹が37才、兼通は45才、兼家で40才、父の師輔が28才だったので、特別扱いには変わりなかったようです。
 先に花山天皇との関係の所で触れたように、為光は花山政権が長く続けば、外戚の可能性も十分にあった貴族でした。その特別扱いの理由は、
  大淀のみそぎ幾代になりぬらん神さびにたる浦のひめ松
の歌が奉られるような彼の血統、つまり母が元斎王の内親王という貴種性によると考えられるのです。何しろ長い斎王の歴史の中でも、元内親王の斎王が臣下と結婚して生まれた子というのは、雅子内親王の子どもたちしかいなかったのですから。
 残念ながら為光の直系は、源平合戦の頃には絶えてしまったようですが、彼の同母妹の愛宮(あいみや・あいのみや)という女性が左大臣源高明(みなもとのたかあきら)と結婚して、源明子(みなもとのあきらけいこ)という娘を残しています。そして明子は藤原道長の第二夫人となり、その子孫がかなり繁栄することになりました。その中には、藤原俊成や定家の御子左家(みこひだりけ)も入っています。定家にとっても雅子内親王は、遠い祖先の一人だったのです。

学芸普及課長 榎村寛之

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