第28話  順序が逆?の緑のたからもの

 新聞等でご存じの通り、斎宮歴史博物館にて最近、斎宮跡で発見された2点の貴重な文化財を展示いたしました(6月12日終了)。緑釉陶器の羊形硯と唐三彩の陶枕の破片です。

唐三彩陶枕破片(左)・緑釉陶器羊形硯破片(右)

唐三彩陶枕破片(左)・緑釉陶器羊形硯破片(右)

 じつはこの2点の遺物は、面白いことに「順序が逆」なのです。
 まずは緑釉陶器羊形硯。これは8世紀中頃のものです。 この羊の飾りのついた硯は、平城京跡など全国数カ所からしか出土しておらず、いずれも奈良時代の遺物です。従って今回の資料も奈良時代のものと考えるのが妥当でしょう。しかし斎宮跡では、緑釉陶器は奈良時代も末期にならないとみつからないのです。
 もともと、緑釉陶器とは、奈良時代に国産化された三彩陶器、通称奈良三彩の技術をもとに、緑一色の陶器としてつくりだしたものです。最初につくられたのは長岡京遷都の頃で、当時は長岡京周辺の窯で焼かれていました。続いて9世紀初頭になると、尾張の猿投窯でも焼かれるようになり、それは嵯峨朝の頃ではないかと見られています。
 斎宮跡では奈良時代末期、長岡京の頃の京都産緑釉陶器が最初に見つかります。しかし、この時期のものは量が少なく、また、火舎(かしゃ)、高杯、羽釜など、特殊な形の物の破片が多いことから、まだまだ限られた使われ方しかしていなかったと言えます。
 質量ともに最も豊富になる「全盛期」は、猿投窯の製品が発見されるようになってから、9世紀中頃から10世紀前半の時期です。
 『延喜式』の「民部式」の下巻に、「年料雑器」という項目があります。これは、正税【米の税、つまり租を蓄えた物】を使って交易で手に入れる器の規定で、尾張国と長門国の「瓷器(じき)」のリストが書き上げられています。考古学的調査から、尾張と長門はともに緑釉陶器の生産国だとわかっていますので、この「瓷器」は緑釉陶器のことと考えられています。
 しかし、尾張国が交易して入手しているのは、大椀、中椀、小椀、茶椀、盃、擎子(けいし、しつし)と呼ばれる小さな器、花盤、花形塩杯、甕などで、特に変わった形の製品を作り、都へ納入していたわけではないことを意味しています。実際、斎宮跡で発見されている尾張・猿投窯の製品は、ほとんどが椀や杯、皿の類で、まれに香炉や唾壺(だこ)が見られるくらいです。つまり都でも斎宮でも、猿投窯の製品は実用品だったと考えられるのです。
 しかし今回見つかった羊形硯は、こうした実用品とは性格が違うようです。
 羊の角の本体は、くり返しますが奈良時代のもので、おそらく平城京周辺で焼かれたものと考えられます。つまり斎宮の緑釉陶器の中でも飛び抜けて古いと考えられるということなのです。あるいはこの硯は、奈良三彩の技法を利用して造られた単色の彩釉陶器という言い方もできるのかもしれません。また、三彩陶器や緑釉陶器は、低い温度で焼いた土器に、鉛釉と呼ばれる釉薬をかけて二度焼きするもので、陶器といいながらも固くはなりません。そんな柔らかい焼き方の硯は、実用品とは考えにくいですね。緑釉陶器羊形硯は、おそらく一種のシンボル、持ち主や組織の権威を表すものとして斎宮にもたらされたとも思われます。このように、緑釉陶器羊形硯は、緑釉陶器としてはかなり古い時代の特殊な製品なのです。

一方、唐三彩の陶枕は、唐三彩としてはかなり新しい時代、9世紀から10世紀頃のものです。
 もともと唐三彩は、盛唐の頃、明器つまり副葬品としてつくられたもので、その全盛期は8世紀中頃までといわれています。つまり、藤原京・平城京と平行する時期のものが全盛期というわけですね。日本にも藤原京の頃、8世紀初頭には入っていますが、中国からの直輸入か、新羅を通してかはわかっていないようです。しかし、奈良時代の火葬の流行と薄葬令(はくそうれい)のため、日本では多くの副葬品をもつ墓はまず造られませんでした。そのこともあり、唐三彩、さらにそれを国産化した奈良三彩は、明器として使われることはなかったようです。そして奈良時代末期になると、緑釉陶器が現れるのはすでに述べた通り。その背景には、最新流行の青磁や白磁にならった土器を創りたいという強い希望があったようです。
 ところが唐では、もう一度三彩のブームが訪れたようです。それが晩唐三彩と呼ばれるもので、9世紀から10世紀頃、これらは実用品として造られたものが多いと指摘されています。そしてこれらの製品もまた、日本でも発掘されています。
 こうした三彩の中で有名なのは、人や馬やラクダの形をしたものですが、日本ではそのタイプは全く出土していません。それに対して一貫して好まれていたのが、枕と呼ばれる、長辺15センチメートル前後の小さな直方体の箱です。枕といっても、実際に人が寝る時に頭を置く枕と証明されたわけではなく、文章を書くときのヒジ置きではないかという説もあるようです。この箱形枕の破片は斎宮からも出土しています。やはり墓から出土するわけではないので、装飾品として使われたと理解されています。
 今回出土した破片は、そうした枕の一種で、直方体ではなく、平らな皿にそれを支える台座がついたものの、皿の部分と考えられています。晩唐三彩の中には、こうした変わったタイプの枕があるのです。日本で現存する例では、東京の出光美術館が所蔵しており、その台は獅子のような動物の形をしています。出光美術館の枕の出土地はおそらく中国と見られますが、平安京跡ではこうした三彩枕の一部と見られる三彩の動物の顔が発見されています。おそらく今回発見された三彩片も、こうした動物型の台座の上に付いていたのでしょう。平安時代の唐三彩は、唐三彩の歴史の中でも最も時代の下るもの、ということになります。
 このように、今回発表した資料は、「古い緑釉陶器」と「新しい唐三彩」という意味で「順序が逆」の資料なのです。そしてそのことは、斎宮跡で出土する「たからもの」が、その時代の流行を単純に追いかけているだけのものではないことを示しています。
 そして、これらが出土したのは、これまでの調査成果から見て、斎王のいた内院とは思いがたく、斎宮寮の一角と考えられている所です。斎王から誰かに下賜されたものの破片なのか、斎宮寮に置かれていたものなのか。特に緑釉陶器の羊形硯など、奈良時代に造られたものが平安初期の斎宮が置かれた区画の中で見つかっているなど、多くの問題をはらんでいます。
 それは、単に貴重な資料というだけではなく、斎宮という遺跡の性格を考える上でも重大なヒントを与えてくれる発見なのです。

学芸普及課長 榎村寛之

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