第24話  大きなのっぽの・・・

斎宮歴史博物館の展示室2には、かなり大きな緑釉陶器の広口瓶と大鉢が展示されています。大壺は口径29.1センチメートル、復元した高さは60センチメートル近くあるものです。

展示室2の広口瓶(右手)と大鉢(左奥)

展示室2の広口瓶(右手)と大鉢(左奥)

 斎宮跡で見つかる緑釉陶器は、9世紀中頃から増加します。そして量が多く、器種が様々、花文を刻むものなどもあり、平安前期の代表的な遺物と言えますが、これほど大きなものは他にはありません。
 しかも、この広口瓶と大鉢、緑釉陶器の質が最もよかった時代のものではないのです。
 斎宮の緑釉陶器が急増したのは、隣国尾張の猿投窯で緑釉陶器の生産が始まってからです。これは、それまでからあった京都周辺の窯での製品に加え、おそらく海運などを活かした産地直送の流通体系が形成されたためだと考えられます。猿投産の緑釉陶器は東北の多賀城などからも見つかっており、高級品として東日本にも広く運ばれたようです。
 猿投窯の製品は、オリーブ色がかった黄緑の発色が美しく、金属器を写したとも言われる流麗なフォルムのものが多く見られます。また、喫茶用に使われたのではないかと言われることもあるぐらいで、大きな物は作っていません。
 それに対して広口瓶や大鉢は、大きさこそ驚くべきものですが、緑色はやや渋く黒ずみ、全体の形もそれほど洗練された感じはしません。実はこれらは、猿投の製陶がやや衰退した頃に現れる、東濃、つまり現在の岐阜県東部、多治見市、土岐市などの窯の製品らしいのです。
 斎宮では10世紀中頃の遺構から、猿投産に代わって、近江・東濃産の緑釉陶器が出始めます。しかし、猿投産に比べてそれほど多様に使われていたという感じではありません。にもかかわらず、こんなに巨大な製品が見られるのです。窯の変化に伴って何か別の変化があったのでしょうか。例えば生産地が変われば、搬入経路は変わるはずです。納品システムなどはどうなのでしょう。
 少なくとも、9世紀後半に比べ、10世紀中頃の緑釉陶器は明らかに減っています。しかし興味深いのは、斎宮では200年近くにわたって数多くの緑釉陶器が使われているのに、この大型の瓶や鉢に類する物は、その前後の製品に見られないことです。つまり、10世紀のある時期の緑釉陶器にだけ、単発的に大きな物が搬入されているように思えることです。
 ではそのある時期とはいつ頃なのでしょうか。
 この広口瓶は首より上の部分が、また大鉢も側面や口縁の一部の破片が、史跡の中央やや西側の近接した所で発掘されました。そしてともに、火を受けた形跡があるのです。つまり、火事で焼けて割れたので廃棄された、という可能性があります。
 斎宮についてのこの時期の文献は決して多くありませんが、その中で『日本紀略』の天元4年(981)正月13日の記事に、「斎宮寮雑舎十三宇有火」という記事が見られます。もしかしたら関係があるのかもしれません。時期としては無理のないものです。
 この年は大神宮遷宮の年で、斎王は村上天皇皇女規子(のりこ)内親王でした。つまり、斎宮には規子斎王の母で三十六歌仙の一人である斎宮女御【徽子(よしこ)女王】もいたのです。

 ここで話を少し変えます。緑釉陶器はオーダーメイド品なのでしょうか、レディメイド品なのでしょうか。
 その収取方法を含め、古代の陶器にはなかなかわからないことが多いのです。官窯ならば国府などが管理して、税の代わりに労役させる雑徭などの形で管理生産をさせていた可能性が高いのですが、緑釉陶器や灰釉陶器の分布からは、どうもそれだけとも言い切れないように思うのです。
 たとえばそれぞれの窯に、特注品を受け付けるシステムはあったのではないかとも思うのですね。この緑釉広口瓶など、類例品の少なさから、そうして作られたようにも思えてくるのです。
 仮にこの広口瓶が特注品だとして、ではどういう経緯が想定できるでしょう。ここからは仮説の仮説です。
 規子内親王の前後の斎王には、きわめて情報の少ない斎王が多いのです。たとえば冷泉朝の輔子(すけこ)内親王はその退位により群行はしませんでした。次の円融朝の隆子女王は斎宮で亡くなり、そのために規子が斎王となりました。規子の次の斎王は花山朝の済子(なりこ)女王で、スキャンダルと花山帝自身の退位で野宮から退いています。つぎの恭子(たかこ)女王は伊勢で20年以上暮らしていながら、ほとんど記録のない斎王です。この時期の斎宮には、劇的な変化はおそらくなかったでしょう。
 しかし規子だけは違っていました。なぜなら、母の徽子女王がこの時は斎宮にいたからです。元・斎王でしかも元・女御がいたことは、斎宮に大きな変化をもたらしたはずです。例えば、必要経費だけで二倍かかります。仮に徽子女王の滞在費が全額自弁だとしても、徽子には徽子付の女房がいるはずです。つまり、規子内親王の時代には、只でさえ多い斎宮の女性人口は、なお多くなっていた可能性が高いわけです。
 とすれば、この時期に斎宮が奢侈的になったり、必要経費が増えたりしたとしても不思議ではないとも思われるのです。
 あるいは、こうした大型の緑釉陶器は、そんな時代の特注品なのかもしれません。斎宮女御が「このごろの青瓷(緑釉陶器のこと)は色がよくないわねぇ。私が斎王だった頃には、尾張からもっと美しいのが来ていたものよ」と言われてムカッときた規子内親王が、母親を脅かしてやろうとして大壺を発注した、そして雑舎に収めていたら、火事で焼けてしまった・・・てなことはないでしょうけどね。

(学芸普及課 課長 榎村寛之)

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