第22話 女帝と斎王
紫式部の時代を生きた藤原公任(966-1041)という貴族がいます。摂関家の傍流で、位は正二位権大納言にまで上がり、藤原道長の時代の有能な官僚として知られた人物です。この人が『北山抄』という儀式書を著しています。
この『北山抄』、道長の祖父、師輔の兄で関白だった実頼の系統に伝わる儀式情報をまとめたものとして極めて貴重な史料なのですが、その中に、斎王卜定の先例調査についてのこんな記事があります。
承平五年十二月廿二日、今日、伊勢斎王を卜定するの由、陰陽寮勘申し了んぬ。而して、天平勝宝・天長例に依りて、前の斎王の京に入るの後に定むべきの状、仰せ了んぬ。(貞御記)
貞御記というのは、実頼の父、関白藤原忠平の日記『貞信公記』のことと考えられます。この時の斎王は醍醐天皇の皇女、雅子内親王で、彼女の退下により次の斎王を選ぶ卜定の日程を、陰陽寮が十二月二十二日にしたいと上申してきたが、斎王が帰ってきてからというのが前例だと認可しなかったという内容です。
で、面白いのは、その前例として天平勝宝という年号が挙げられていることです。
これは奈良時代、749年から757年まで使われていた年号なのですね。そしてこの期間は、孝謙天皇の治世とほぼ重なるのです。
斎王はいうまでもなく女性です。そして一般的には、男の天皇が娘をはじめとしたその眷属から選ぶものとされています。では、もし天皇が女性であった場合はどうか。置かれたり置かれなかったりしています。
『日本書紀』や『続日本紀』の記述によると、
推古天皇の時は、用明天皇の娘、酢香手姫皇女が継続、後に自主的に退出
皇極(斉明)天皇の時は、『日本書紀』に記録なし
持統天皇の時は、『日本書紀』に記録なし
元明天皇の時は、『続日本紀』や平安時代後期に編纂された『一代要記』という史料に伊勢神宮に派遣された皇女の記録はあるが、斎王かどうか不明
元正天皇の時は、『続日本紀』によると、即位して二年以内に選んでいる。
孝謙天皇の時は、『一代要記』に小宅女王の名があるが、『続日本紀』には記録なし。
称徳天皇の時は、『続日本紀』に記録なし
女帝と斎王の問題は、なぜ女帝がいるのか、なぜ斎王が女性なのかという問題とも関わる大きな問題です。例えば、もともと天皇とペアだった斎王が伊勢に送られたから、女帝の時代には斎王はいないという考え方ものあるのです。しかしこの時代の斎王の記録はごく少なく、なかなか正確なことはわからない事が多いのです。たしかに、一見すると、最初の女帝である推古天皇の時になしくずしに止めてしまい、その後は置いていないのが、律令体制になるとだんだん置くようになったともとれますが、推古天皇から天智天皇までの間は、そもそも『日本書紀』に伊勢神宮自体の記録がほとんどありません。そして、持統天皇は自ら伊勢・志摩への行幸を行うなど、伊勢神宮とは特殊な関わり方をした天皇と見られます。その意味では参考になりません。単純比較はできないのです。
また、奈良時代の斎王は、男性天皇の場合でも、たとえば天皇が即位してすぐに選ばれるという原理原則が必ずしも守られていたわけではありませんでした。文武天皇は即位してすぐに斎王を卜定しましたが、聖武天皇は即位前、つまり元正天皇の時代に斎王になった娘の井上内親王をそのまま斎王にさせつづけています。淳仁天皇は、即位のすぐ後に斎王を置いたようで、斎王のことをわざわざ伊勢神宮に報告するという記事が『続日本紀』に見られます。光仁天皇、桓武天皇は即位の後に娘を斎王にしていますが、伊勢神宮に報告したという記事はありません。奈良時代の天皇と斎王の関係は、割合に不安定なのです。これは、平安時代に見られる安定した天皇と斎王の関係を構築するためのさまざまな試行錯誤が奈良時代に行われていたからかもしれません。
そうした中でこの史料は、名前こそわからないものの、孝謙天皇の時代に斎王がいたことを明確に示すものとして注目できるものです。しかも藤原忠平という権力者が参考にした史料なのでかなり信頼性の高い、おそらく斎宮に関する部類記(その事項についての行事記録)などを参考にしていたものと考えられるのです。つまり、後世の編纂物である『一代要記』よりも信頼性が高いわけです。
そしてこの史料は貴重な記録の一つであるとともに、特に面白い点があります。それは、奈良時代の事柄が「先例」とされていることです。平安時代は先例主義の時代でもありますが、奈良時代の、しかも女帝の時代の斎王の記録が残されていて、先例とされるのは極めて珍しく、その意味でも注目される記録なのです。
孝謙(称徳)天皇の時代は、独身の女帝ということで後継者が定まらず、その結果が後に道鏡に皇位を譲りたいという大きな問題に発展していきます。そうした時代の政治のあり方と、斎王の問題は大きく関係しているのです。
(学芸普及課 課長 榎村寛之)