第13話  ただいま休館中&ムベって知ってます?

 12月になりまして、斎宮歴史博物館は耐震補強工事のための休館に入りました。日頃ご愛顧をいただいております皆様方には、しばらく寂しい思いをおかけいたしますが、どうぞご理解をよろしくお願いいたします。
 さて、休館中、私たち学芸普及課は、日頃働いている受付周辺を離れ、会議室に籠もることになりました。部屋は変わっても、お客様の対応はなくても、結構忙しさは変わらないもので、次年度の準備など、色々と動き始めています。ただこの期間は、比較的まとまった時間がとりやすいので、このところ滞りがちな千話一話も、できるだけ更新していこうと思います。改めてよろしくお願いいたします。
 先日、知人にムベの実を見せてもらいました。秋に実るアケビに似た蔓の植物でトキワアケビという言い方もあるようです。その実は赤く色づきますが、アケビのようには割れません。中には種がびっしり入っていて、種を薄く包む果肉は少ないけれど、甘くてなかなかおいしいのです。
 日頃アケビやザクロなどでさえなかなかお目に掛かれないので、ムベとは珍しいと思っていたら、同席していた一人の方が「ムベと言えば、天智天皇の果物」とぽろっと言われたのですね。その時は気にしていなかったのですが、ウェブで調べてみるとこんな話がありました。
 「現在滋賀県近江八幡市にある蒲生野に天智天皇が狩りに出かけた時、八人もの男の子を持つ健康な老夫婦に出会った。長寿と健康の秘訣を尋ねたところ、この地でとれる果物が健康に良い無病息災の霊果だとのことで、食してみると大変美味しく、〈むべなるかな(もっともなことだ)〉と毎年の献上を命じた」というのですね。検索ソフトで「むべ 天智天皇」と入れると沢山出てきますので、滋賀県ではかなり有名な伝説のようです。
 実際に江戸時代、宮廷に献上していたのは蒲生郡奥島村、現在は近江八幡市で、西国三十三カ所の長命寺にほど近く、奥島山国有林となっている所です。今はほとんど埋め立てられた大中の湖干拓地が水面だった頃は、琵琶湖に突き出た半島だったであろう山です。
 さて、現在の用字では、ムベは郁子と書きます。そして、郁子という植物が近江国(滋賀県)から調(税の一種)として貢納されていたことが文献からも分かります。『延喜式』「宮内省式」の「諸国例貢御贄」条には、近江から郁子が送られるとしていますし、「大膳式下」の「諸国貢進菓子」条には、山城国から四擔(たん)と近江国から二輿籠が貢納されていたことがわかります。今で言う近郊作物で、新鮮さがポイントだったのでしょうね。また、この「輿籠(「よこ」と読むのかなぁ)」という単位は他の菓子には見られないもので、籠を輿に入れて担いできたものなのかもしれません。とすればなかなか仰々しい運び方をしていたことになります。
 このように、平安時代から郁子は宮中でも食べられていたことは間違いありません。しかし、それが「ムベ」のことだったかどうかはなかなか判然とはしないのです。というのも、郁とは本来、郁李のことだそうで、「李」はスモモです。そしてスモモとなると、アケビに近いムベとはずいぶん感じが違います。しかし『倭名抄』には、「郁子」の訓は「牟閉」だとしているので、漢字が日本に入ってきた段階で取り違えられたとも考えられます。なお、アケビは「蔔子(ふくし)」と書くようです。
 さて、ムベが朝廷に献上される起源について『古事類苑』を見ると、ムベの「献上候由緒申伝之覚」という文献が目に入りました。筆者は江戸時代後期の博物学者、屋代弘賢(1748-1841)で、『古今要覧稿』という本の中に書かれています。つまり屋代が、江戸時代にムベを献上していた「近江国蒲生郡奥島」の「郁子供御人等中」に伝えられていた由緒書を写したものと見られます。それによると、
 「聖徳太子の時、奥島庄に行幸があり、それ以来「王之浜」という地名ができた。その時に奥島に〈男子八人有之夫婦〉が長命堅固でおり、太子がその理由を問えば、夫婦は、自分たちの屋敷にあるこの実を食べているからと言ったので、その果実を「ムベ」と名付け、以後供御するように命じ、その供御料として奥島山を下された。その後、この習慣は中断したが、文安二年(1445)に復活して現在に至る。」
ということです。

 ここでは、八人の男の子がいる夫婦は同じながら、行幸したのは天智天皇ではなく、聖徳太子です。そして「むべなるかな」のエピソードはありません。そして屋代は、この伝説につき、聖徳太子とも天武天皇ともするが明らかではない、としているのです。天智ではなくて天武?
 じつは郁子と天武の関係については、本居宣長(1730-1801)がその随筆で、また違うエピソードを書いているのです。宣長が引用しているのは『淡海府志』という文献で、それによる奥島の郁子の由来は、
「天智天皇が志賀郡に都していた頃、大友皇子に命を狙われ、このあたりに隠れたことがあった。その時にとある郷士、つまりその地域の有力者で大変長命な人が、息子八人とともに天皇を守護した。天皇はいたく感じ入り、またこの里の人はみんな無病息災なので、そのゆえんを訊ねたところ、秘薬としてこの果物を献上した。その後都の争乱も治まり、都に帰ってからも、霜月一日には郁子の節会を行うようになり、十月下旬に奥島の郷士が奉る例となり、その生える場所を王の浜といい、除地となった。しかし乱世となり、中断したが、文応(文明のあやまり?)年中に再開した。その後この地は井伊家の領地となったが、ムベ(蘭の「東」を「奥」に変えた字、創作字かも)の成るあたり一石五斗ばかりを除地とし、郁子講と称して十月下旬に奉納しつづけている。他に移植しても実らないという。」
 ざっとこういう話です。そして宣長は、天智ではなく天武なのだろうと指摘しているのです。おそらく大友皇子との対立から推測したのでしょうね。そしてこれが屋代の言う、天武朝の由来なのでしょう。
 なんだか現在の伝説は、この二つをくっつけて出来てきたような感じですね。江戸時代の芝居など(たとえば、歌舞伎や文楽で知られる『妹背山女定訓』など)には、天智天皇が蘇我入鹿に追われて潜行するという話があり、貴種流離譚の主人公とみなされることはあったようです。
 また、聖徳太子にまつわる伝説が、太子信仰として各地に広がっていたこともよく知られています。これらの伝説はそうした雰囲気をよく伝えているものといえるでしょうね。ちなみに木地師が守護者として崇めたことから近江とも関係の深い、在原業平ゆかりの惟喬親王にまつわるとする伝説もあるそうです。
 しかし天智は明治以後、大化の改新を行った天皇として改めて注目され、『百人一首』以来の文人的な天皇から、武断派の天皇にイメージが変わったようです。また、大友皇子の反逆者的イメージはすでに『大鏡』に見られ、長い間いイメージでは語られてこなかったようなのですが、明治になって弘文天皇の名が贈られたことは有名ですね。そうした社会情勢の変化によって、聖徳太子伝説の主人公を天智に代えたのかもしれません。
 そして面白いことには、『淡海府志』の伝承にも「むべなるかな」は出てこないのです。
 「ムベ」は、贄として出されていたことから、「おほにへ(大贄)」の転訛語である「おほむぺ」がさらに変わってムベという植物の名になったのではないかと指摘されています。輿籠で送られてくる特別な果物だったことと由来する名だとしたら面白いですね。だとすると「むべなるかな」のエピソードは、本来の意味が完全に忘れられた後についた、かなり新しいものだということになるのでしょう。
 ムベの伝説は、色々なパターンが分岐・統合を繰り返し、時代の変化とともに形を変えていく面白いサンプルといえるのではないかと思われます。
 残念ながら斎宮にはムベが送られていた記録はありませんが、関東より西では各地に自生しているようです。伝説のように王の浜でしか実らない、というわけでもなさそうなので、斎宮でも食べていたのかも、と思うと楽しいですね。

(学芸普及課 課長 榎村寛之)

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