第8話  斎宮の歴史の重みが「重要文化財」

 歴史が時間の流れによる事件と変化の積み重ねであるとしたら、斎宮ほど歴史と縁のない所も少ないのかもしれません。
 斎王の勤めは同じことの繰り返しで、新しいことは付け加える必要がないようなものばかりです。伊勢神宮に何か異常があっても、臨時の勅使や祭主以下の神職団によって処理されるのが通例で、斎王が何かをしなければならない、というようなことはほぼなかったわけですし、まして一人ひとりの斎王の個性など、ほとんど考慮されることはありません。その意味では、斎王とは、じつに顔の見えにくい存在であったということができるでしょう。
 とはいえ、斎王とて生きている一人の人間であることには変わりありません。そして斎宮とて、機能している国家機関の一部局であることに変わりはありません。神に仕える、という見えにくい部分を除けば、一日一日の行政事務や諸事件が積み重なって行ったであろうことは、例えば今の斎宮歴史博物館の活動と本質的な大差はないはずです。そして何より、斎王制度が無くなってしまったことが、この制度が現実に生きていたことの証しともいえます。斎王とは、日本の制度としては極めて珍しく、形式化して-たとえば肩書きだけ任命して京から遥拝させるとか-残らなかったシステムでした。つまり、「機能していてこそ意味のある制度」だったのです。
 事実、現実の歴史の中では、斎王や斎宮のありかたには大きな変化が見られます。それは天皇や伊勢神宮の性格付けと対応した、政治の一環としての変化であり、斎王の変化は、天皇や伊勢神宮の性格が、現在のあり方と大きく異なっていたことを照射する鏡のような存在だということもできるのでしょう。
 斎宮跡の発掘調査が始まってまもなく四十年、国の指定した史跡になって三十年、博物館が開館して二十年、その間の調査により、文字情報としてはほとんど変わっていない「斎宮」が、約660年の間に劇的な変化を遂げたことを明らかにしてきました。その生活にも文化にも規模結構にも、時代の要請を受けた変化が見られ、それはそれぞれの時代の日本文化と密接に関連したものでした。
 たとえば遺物を見ても、平城京から直接持ち込まれた三彩陶器や羊型硯、蹄型硯など、シルクロードの東の終点ともいえる奈良時代の遺物。銭貨やひらがな、中国や朝鮮産の磁器など最先端をいく道具や情報と、緑釉陶器、灰釉陶器など、尾張国からおそらく伊勢湾の海上交通を利用して運ばれてきた地域生産・消費体制に関わる高級品が主体となる平安時代、そして全国でも珍しい、朱彩のある大型土馬やかわらけの皿の底に顔を描いた平安末期の特殊な人面土器など、そしてそして、ありきたりの日常を重ねながら、少しずつ形式変化を見せ、その時代の生産や消費のあり方の一端を示してくれる日常の土師器の数々。これこそは、あたりまえの日常の繰り返しが、歴史の重みとなっていくことを如実に示しています。
 こうした斎宮の調査成果が正しく評価され、その出土資料2661点がこのたび重要文化財に一括指定されることになりました。史跡に指定されていることは、その遺物には重要な価値があることは自明のことともいえるのですが、こうして改めて指定を受けることは、その意味がより明確に評価されたことでもあり、大変喜ばしいと思います。
 また、私事ではありますが、偶然、拙著『伊勢斎宮の歴史と文化』(塙書房)をこの時期に刊行することができました。筆者としては二重の慶事に忘れがたい春となりましたことを報告させていただきます。

(学芸普及課 課長 榎村寛之)

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