第7話 斎宮と禅寺とオバケと亀山天皇
斎宮に斎王がいなくなったのは鎌倉時代の文永9年(1272)のことです。その時の天皇は亀山天皇(1249年生 1305年没)でした。それ以後の斎王は選ばれても伊勢に来ることなく、野宮で退出するくり返しで、1330年代に制度そのものが廃絶したのです。
斎宮が斎宮の地に営まれなくなったころ、この近くに新しい宗教センターが誕生しました。現在の明和町上野、斎宮から東に2から3キロメートルほど行ったところにあった臨済宗の名刹、安養寺です。
安養寺は、臨済宗東福寺派に属する大寺院で、東福寺の九世で伊勢出身という癡兀大慧(ちごつだいえ1228年生 1312年没)によって永仁5年 (1297)に建立されました。その最盛期には、「百間四方の境内の周りには堀が巡らされ、その中には多くの堂塔が立ち並ぶ大寺院であった(『明和町史 史料編 第一巻 自然・考古』 明和町 2004年)」といい、京の五山に準ずる格式の寺だったといいます。
この安養寺が属した東福寺派は、いうまでもなく京都市の東福寺を本山としています。東福寺は九条道家の発願により建長7年(1255)に落慶した寺ですが、面白いのは、禅寺でありながら、禅・天台・真言三宗兼修の道場だった、ということです。
その東福寺の三世の住持で、大慧の兄弟子だった人に無関普門(むかんふもん 玄悟とも 1212年生 1292年没)というお坊さんがいます。実はこの人、湯豆腐で有名な南禅寺の開山(寺を開いた僧侶)でもあるのです。
その南禅寺の数十年後の住持に、虎関師錬(こかんしれん 1278年生 1346年没)という僧がいます。『元享釈書』という日本仏教史の本を書いたことで有名な人なのですが、この人が『文応皇帝外紀』という南禅寺の由来書を暦応2年(1339)に書いており、ここに東福寺・南禅寺と亀山上皇の意外なつながりが記されているのです。
それによると、南禅寺はそもそも弘安年間(1278年から1288年)に立てられた亀山院(上皇)の離宮だったそうです。その地は元々「福地」と呼ばれ、風光明媚な地で、ここに最初豪壮な邸宅を営んだのは、平治の乱の首謀者として斬られた藤原信頼の子で、それを亀山院が手に入れ、離宮にしたのだそうです。この宮は広く壮麗なこと、都下でも筆頭と言われたものだったのですが、正応(1288年から1293年まで)の初め頃、ここに怪事件が起こりました。夜半になると、離宮の扉や障子が一斉に開いたり閉じたりして、宮仕えする女の中には「なにかが私を押さえつけていて起きられません」という者も出たといいます。ところが朝になると自然と起きられるようになり、怪異も収まるのです。上皇は大いに恐れて、臣下を集めて協議したところ、「高僧の徳行ある人なら、この怪をはばむことができましょう」ということになり、奈良西大寺の叡尊上人(1201年生 1290年没)の評判が高かったので、正応3年(1290) に上皇は彼を離宮に召して、怪魅を圧するために密教による儀式を取り行わせました。ところが叡尊の法力をもってしても、あやかしは以前のままで、とうとう叡尊はこっそりと奈良に帰ってしまいました。
困った上皇は、正応4年(1291)に、東福普門(東福寺の無関普門のこと)を召して問いました。「師はこの宮にいて魅を止められるか」。普門は答えて「外国の書にも、妖は徳に勝たず、とあります。私のいる所、どうして怪がありましょうや」。上皇は近臣に「普門師は烈丈夫だな」と言ったそうです。
というわけで普門は勅命で離宮に滞在しました。とはいっても護摩を焚いたり呪文を唱えるでなく、ただ修行を行っただけなのですが、その間に宮の怪はだんだん少なくなり、ついに無くなったのでした。これにより上皇は禅宗に心を傾け、この宮を禅寺としようとしました。
こうして亀山院の寄進でできたのが南禅寺なのです。つまりオバケ屋敷を、オバケ退治をしてくれた禅僧にプレゼントしたのが起こりだったというわけです。
この話、どこが面白いかというと、密教呪術の取り合いが背景にほの見える所なのです。普門がただ修行をしていたら怪異現象が終息した、と書くと、なんだか座禅をしていたらオバケが勝手に出ていったように見えますが、実は少し違います。東福寺は禅と天台と真言の寺ですから、普門は密教の僧でもあるのです。つまりこの話、普門が派手な密教儀礼をした叡尊より優れた密教僧だったとも言っているのです。
叡尊はもともと興福寺の僧ですが、空海を尊敬して密教に傾倒する一方、その著作から律、つまり仏教戒律の重要性を知り、当時ほとんど壊滅寸前だった鑑真以来の律宗を再興し、奈良の西大寺をそのセンターにして、大いに普及活動を行ったという、鎌倉時代後期の南都を代表する名僧です。しかし南禅寺の虎関は、密教+律宗の叡尊より、密教+臨済宗の普門の方が優れている、と主張しているのです。
鎌倉時代の仏教は、鎌倉新仏教などといわれ、天台や真言、あるいは南都六宗などの旧仏教に対する革新勢力と理解されることが多いのですが、たとえば平氏に焼き討ちされた東大寺の復興責任者(勧進職といいます)を重源から受け継いだのが臨済宗の創始者の栄西だったとか、その重源を勧進職に推薦したのが天台宗の幹部だった源空、つまり浄土宗を開いた法然だったとか、とてもとても単純なものではありません。
とくに臨済宗は、既成の仏教勢力にうまく寄りかかりながら発展していたことがわかってきています。安養寺造営の背景にも、南禅寺で自ら出家して、法皇になったというほど禅宗に傾倒した亀山院の大きな働きがあったことは想像できます。また、長年斎宮が置かれていたこの地域は、南伊勢地域の交通の中心になっていた可能性が高い所であり、伊勢神宮に向かう勅使はずっと行き来しているのですから、亀山院の元にも斎宮の荒廃情報は入っていたでしょう。
そして斎宮跡の中で確認されている奈良時代以来の官道を延長していくと、安養寺跡にほぼ行き当たります。伊勢出身の癡兀大慧は、先輩の無関普門のオバケ退治の実績なども利用して亀山院に進言し、荒廃していく斎宮に代わるべき存在として東福寺系の大寺院を、その近くに造ってもらったのでしょうか。
(学芸普及課 課長 榎村寛之)