第6話 馬が取り持つ斎宮と斎院?
遅くなりましたが、2009年はじめての更新です。早春らしく、歌の話題とまいりましょう。
「馬」という10世紀から11世紀にかけて生きた女流歌人がいました。『百人一首』に採られていないのであまり知られていませんが、歌人としてはかなり有名で、女房三十六歌仙の一人です。賀茂斎院を長きにわたってつとめ、大斎院と呼ばれた村上天皇皇女の選子内親王や、藤原道長の姉で一条天皇の母、東三条院藤原詮子に仕えたとされています。「馬」とは今の感覚ではずいぶん失礼な呼び方ですが、右馬頭源時明の養女だということに由来しているようです。
さて、この「馬」さんは、選子内親王に仕えた後、中宮藤原定子にも仕え、定子が立后した時に掌侍(内侍と通称される)に就任しており、「馬内侍」と呼ばれるようになりました。定子は清少納言が仕えた一条天皇のお后ですから、紫式部や清少納言とほぼ同時代人なわけですね。『百人一首』の赤染衛門の歌
やすらはで寝なましものを小夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな
は、同僚に代わって、約束したのに来なかった藤原道隆(定子の父、道長の兄)に送った歌、という詞書があり、代作してつれない男に送ってやった歌、として知られていますが(後拾遺集)、彼女の歌集『馬内侍集』にも同じ詞書付きで採られており、どちらが本来の形なのか議論があるようです。
ところでこの「馬内侍」の事跡には不思議なところがあります。インターネットで検索すると、いくつかのサイトで、馬内侍は最初、斎宮女御徽子女王に仕えたとされているのです。斎宮女御に関係があるなら、もしかしたら斎宮に来たこともあるんじゃないか、というわけで調べてみたのですが。
なるほど、『斎宮女御集』には、たしかに馬内侍と斎宮女御の贈答歌が見られます。しかし、そこに主従関係のようなものはうかがえないようです。
むまの内侍、やまぶきにさして
やへながらあだにみゆればやまぶきのしたにぞなげくゐでのかはづは 馬内侍
(ゐで=井手、山吹の名所として知られる京都府南部の地名〔もともと井手は川から水田に水を取るための井関の意味なので、かわづ、つまり蛙と関係する〕)。
せんだい(先帝=村上天皇のこと)の御そう分(処分=生前に分けられていた財産のことに、かかせたまへるものをむまの内侍にみせさせたまひければ、うへのみせむとのたまひしを、かくれさせたまひにしかばくちをしかりしに、いとうれしくて(村上先帝が存命のころにいただいた書を馬内侍に見せたところ、天皇が見せようとおっしゃっていたのに、亡くなってしまったので残念に思っていたので、大変嬉しくて)
たづねてもかくてもあとはみづくきのゆくへもしらぬむかしなりけり 馬内侍
ここで見られるのは斎宮女御と馬内侍との交友関係程度のものかと思います。それに馬内侍が斎宮で徽子女王と詠み交わした歌は『斎宮女御集』には見られません。山中智恵子氏は『斎宮女御徽子女王 歌と生涯』(大和書房 1976)で、馬内侍は村上天皇に仕えた女房で、この歌の頃、つまり村上天皇の没年である康保4年(967)には21、22才ぐらい、のちに選子内親王に仕えたと推測されていました。
ところが『平安時代史辞典』(中村和歌子氏執筆)を見ると、さらに驚くべき事実が記されていました。馬内侍は、「『新古今』以来一人の人物とされてきたが、近年では二人説が有力」というのです。要約すると、斎宮女御と同世代で、藤原実資(『小右記』の著者)とも付き合いがあり、天徳4年(960)や応和 2年(962)の内裏歌合にも参加している「馬命婦」という歌人が「掌侍」となって「馬内侍」と言われた、という「馬内侍A」と、源時明の養女で、960 年頃に生まれ、大斎院選子に仕えて、藤原道隆や道兼と恋をし、藤原定子の中宮掌侍となり、赤染衛門と親交があって、出仕を終えたのち歌集『馬内侍集』を編んだ「馬内侍B」がいた、というのです。なるほど、「馬命婦」と同一人物なら、遅くとも940年頃の生まれで、一条天皇の時代まで歌人として活動していたのなら、50才以上にはなっています。
斎宮女御(929年生 985年没)と藤原道隆(953年生 995年没)、道兼(961年生 995年没)の年齢差と、天徳歌合に出ていたことを考えるなら、たしかに「馬内侍A」が道長たちの恋人とするには、少し無理があるようにも思えます。山中説が、村上天皇が亡くなった頃には21から22才としたのも、彼らの恋人としての許容範囲からの推測かもしれませんが、だとすると天徳歌合には少し若すぎるようです。
そして何より、大斎院選子の最初の歌集『大斎院前御集』では、彼女はただ「馬」「むま」とのみ呼ばれていて、まだ内侍にはなっていないのです。しかし『斎宮女御集』では「馬内侍」としているのは先に見た通りです。もちろん歌人の書き方は本によってそれぞれですから、馬内侍が斎院の中では単に「馬」と呼ばれていた可能性も十分にあるのですが、一旦内侍になった人なら、先内侍とか、内侍であったことをもっと強調しそうには思います。
斎宮女御と大斎院選子は、ともに醍醐天皇の皇子であった重明親王と村上天皇の娘なので、父方では従姉妹どうしでもあり、それぞれの母も伯母(藤原忠平の娘寛子)と姪(寛子の妹、藤原師輔の娘安子)という、極めて近い関係です。そして双方の関連文献に馬内侍という女性が出てきます。これは当然同一人物だろう、というイメージで「斎宮・斎院に仕えた馬内侍」という一文を考えはじめたのですが、どうも根拠はやや弱いようですね。どうやら別人と考えた方がよいかと思います。
それにしても、この時代の女性の事跡は不透明なことが多いものです。紫式部や清少納言ですら正史や貴族日記に出てくることもないので、たとえば本名さえ確定できないのは有名な話ですが、当時は有名な歌人だった馬内侍でさえもこの位なのです。女性文化の時代ではありながらわからないことが多いことが改めてよくわかりました。
この二人の馬内侍?の歌が収録された『斎宮女御集』と『大斎院前御集』の鎌倉時代写本は、3月の『栄華の時代』展に並ぶ予定です。どうぞお楽しみに。
(学芸普及課 課長 榎村寛之)