第4話  井上さんを呼ぶ斎宮?

 本年度特別展「神につかえ 仏にいのる」も無事終了いたしました。今回は東大寺からのご出陳をいただくなど、国宝展示もあり、なかなかに華やかな展覧会となりました。この展覧会のテーマは奈良時代の神と仏の関係であり、それを代表する人物として、孝謙(称徳)天皇と井上内親王という、聖武天皇の二人の姉妹を取り上げました。
 聖武天皇の娘、井上内親王は、このような年譜をたどれます。
井上内親王(717年生・775年没)
 717年 生まれる。父、首皇子(後の聖武天皇)、母県犬養広刀自
 721年 斎王に就任  この時女王(皇太子女)
      斎宮官人の補任
 722年 斎宮寮官人の定員・官位を定める
 727年 伊勢に派遣  この時は聖武天皇即位後で内親王
 730年 斎宮寮の経済的自立 斎宮の財源は調庸の一部からになる。
  帰京(時期不明 744年の同母弟安積親王の死によるといる説もある)
  白壁王と結婚(時期不明)
 770年 称徳天皇没後、白壁王の即位(光仁天皇)により皇后に(元斎王唯一の皇后)
 772年 天皇呪詛(巫蠱 ふこ)の疑いにより廃される
 773年 大和国宇智郡に幽閉
 775年 息子の他戸親王(元皇太子)と同日に没、死後、怨霊として恐れられ、皇后復位

 まさに奈良時代中期、斎宮が整備された頃の斎王で、しかも帰京の後に皇后となるという栄光の座から、一転して、廃后、謎の死、そして怨霊にまでなった、という、劇的な生涯を送った斎王です。おそらく、博物館の南側で一部確認されている奈良時代の斎宮跡は、斎王井上内親王と深くかかわるものでしょう。そして史跡東側の方格地割で最初に造営された二重塀の内院区画は、井上内親王が皇后だった時代に計画されたものでしょう。このように井上内親王は斎宮の遺跡とも重大な関係を持つ斎王なのです。
 さて、ところがこの人についてはわからないことが多々あります。たとえば名前の読み方です。現在最も信頼の置かれている日本史辞典である『国史大辞典』には、「いのうえないしんのう」で立項されていますが「いかみないしんのう→いのうえないしんのう」ともしていますが、他にも「いのえ」「いのへ」「いがみ」なども読み方もあり、正確にはわかっていません。「井上」とは意味からすると「湧き水のあたり」です。同じ意味で、墨書土器には「井於」と書かれたものもあります。そして「於」という字には、「山於」と書いて「山辺」と同じ人名・地名で使われる例、つまり「やまべ・やまへ」と読む例もあることからみて、「へ(または「べ」)」とも読めそうなのです。とすれば、「いのへ」と読めるわけで、これは現代語の表記なら「いのえ」にも近くなります。
 井上内親王の名前の由来はよくわからないのですが、井上忌寸という渡来系氏族がいたことがわかっています。そこから乳母が出ていたのだとすると、この氏族については「いのへ」と読む可能性が指摘されています(『新撰姓氏録逸文』 佐伯有清『新撰姓氏録の研究』より)。古代における「井上」の読みは、やはり、「いのへ」か「いのえ」かなあ、とも思われます。

 さて、井上という姓は日本全国でも二十番以内に入る姓なのだそうです。しかし、もともとが「川上」とか「池下」とかと同じく「泉」のほとり」という自然地形系の姓で、地形さえ合えばどこでも発生しうるのだそうです。従って、「井上内親王」が井上姓のルーツ、というわけでもないようなのですが・・・・。
 21世紀に入って、斎宮についての研究論文が歴史学、国文学など色々な分野で次第に増加していますが、その中に「井上」さんという女性が執筆された例というのがしばしば見られるのです。
(1)2001年
井上友希氏「八・九世紀における斎宮寮の動向―移転から考察する存在意義―」(『続日本紀研究』333号 続日本紀研究会)
(2)2006年
井上紗織氏「斎王の三節祭に関する覚書」(『専修史学』41号 専修大学)
(3)2007年
井上真衣氏「物語における斎宮のモチーフとその効果―『栄華物語』当子内親王密通記事に関連して―」(『詞林』42号 大阪大学古代中世文学研究会)
(1)は日本史(古代史)で地域史、(2)は日本史(古代史)で古代祭祀、(3)は国文学(中古文学)で物語と史実の関係論と、分野もそれぞれ異なる三つの「井上」論文が出そろったのです(ちなみに博物館の共同研究者に、男性の「井上」さんも一人おられます。)。
 斎宮についての専門的な論文が公開されることは、本館職員や関係者を除けば、一年に5~6本あれば豊作の年、という感じです。つまり全ての分野を通じて、2001年以降に館外の研究者が書いた斎宮関係論文は、やっと50本に届くか、という程度、となります。その中で、同性で同姓の研究者が三人も出た、というのは他に例がありません。
 とは言っても、先に述べましたように、井上さんは決して珍しい姓ではありません。色々な「日本人の姓」のランキングを見ても、だいたい十位~二十位の間には入っています。だから三人くらいいても不思議ではないのでは、とも思います。ところが、そうしたランキングでベスト10には大抵入っている「佐藤」「鈴木」「田中」「山本」「渡辺」「高橋」「伊藤」などの姓の方で斎宮の論文を書いている人はほとんどいません。そしてなりより、「井上」姓とほぼ拮抗した数という斎宮ゆかりの「斎藤」姓の斎宮研究者はほとんどいらっしゃらないのです。不思議といえば不思議な話ではあります・・・かね?

 もちろん偶然にすぎないとは思います。しかし面白いジンクスですね。
 さあて、来年、日本史や国文学で卒論を書こうとしている全国の井上さん、「斎宮」をテーマにすると、いい論文が書けるかもしれませんよ(笑)。

「ないない(学芸普及課の陰の声)」

(学芸普及課 課長 榎村寛之)

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