第99話 群行を呑み潰した男
正治二年(1200)といいますから、すでに鎌倉時代。斎王や斎宮の歴史も、終わりが近づいていた頃のお話です。
その年の暮、翌年に迫った斎王群行のための行事(事務担当)が任命されました。斎王は前年の十二月に就任したばかりの土御門天皇の斎王、粛子(すみこ)内親王です。粛子は後鳥羽天皇の皇女、つまり天皇の異母姉妹で、当時としてはかなり身分の高い斎王でした。行事を承ったのは左少弁の正五位下平親国(ちかくに)、当時36歳の働き盛りです。そして翌年四月には群行の行事所(事務局)が立ち上がりました。
ところがこの親国、全く仕事をする気配がありません。それどころか、神事と言っては、宴会を開いて舞妓を呼んで、といっても、当然びらびらのかんざしにだらりの帯締めてこっぽり履いて、という京都名物の「舞妓はん」ではありません、おそらく白拍子のような芸能も行う遊女のことを指した言葉でしょう。
ともかく連日舞妓をあげてどんちゃん騒ぎをしていたらしいのです。あげくに斎屋の注連(しめ)の中、つまり祭の忌み籠りをする所にまで舞妓を入れるという体たらく。
ところがその注連の中で不思議なことがおこりました。舞妓を連れ込んだその時、どこからともなくミズチ(蛇)が現れ、またすぐに隠れて見えなくなった、というのです。どのくらいの大きさなのかは記されていませんが、どうも親国はぞっとしたらしく、翌日から病気になり、群行行事の奉行も務められず、ついに辞退したというのです。この時代には、伊勢の神は蛇体だという考え方はかなり一般的でしたから、このミズチは伊勢の神の姿、つまり親国は伊勢の神の祟りで病気になったというわけですね。
この記録は、藤原長兼(ながかね)という貴族の書いた『三長記(さんちょうき)』という日記に「ある人が院、つまり後鳥羽上皇の所に来て語った話」として見られます。噂話なのですね。そしてこの話は、「斎宮の恠(かい)」について判断をする卜(うらな)いの後に出てきます。なるほどこれは怪異ではありますね。
ところが『三長記』はさらに続けてこんなことを書いています。
去る八日に親国に代わって右少弁の藤原光親が任命され、行事所に毎日行って調べた所、群行準備のために用意された六万疋の予算が、「当時一塵も拾納する物なし」というありさまだったというのです。この疋という単位、なかなか難しいのですが、一般的には一疋が銭十枚、つまり十文としています。1疋十文なら、六万疋は六百貫となります。『徒然草』第六十段では、銭二百貫と坊一つを相続した盛親僧都という僧が、坊を百貫で売って、「かれこれ三万疋の銭」を残らず大好物の芋頭の代金に充てた、という話があります。この事件より百年ほど後のことですが、六百貫というのがそうとうな価格だとわかります。それなりの僧の住居が-おそらくかなり安価でも-百貫です。六百貫というのは、今なら数千万円という所でしょうか。
この六万疋はどこに行ったのか。
少なくとも平親国が知らなかったはずはありません。彼の動向から見ると、あるいは「すっくり呑んで」しまったのではないかとも思います。群行の予算は一人の官人の遊興費に消えてしまったかのようなのです。仮にそうでないとしても、伊勢神宮の祟(たた)りを受けた彼がただですむとは思えません。
ところが面白いことに、親国、どうやら罪に問われた気配がないのです。それどころか八月十九日には右中弁に昇進、三年後の建仁四年(1204)には藏人頭兼江皇后亮となり、弁官局を離れています。そして建永元年(1206)には、従三位、つまり公卿に列しているのです。
ではこの平親国というのはどんな人物だったのか。これがまたなかなか面白いのです。
この時代、つまり高望流と呼ばれる、平清盛以下の武家平氏の滅亡後、平氏といえば、ほぼ、高棟流平氏と呼ばれる文官の平氏です。ところがこの文官平氏というのも、清盛の妻、平時子、その兄弟で「この一門でない者は人ではない」と言ってのけた平時忠、その妹で、後白河院の寵愛を一身に集めた建春門院平滋子などを出した家ですから、平氏の栄華の一翼を担った一族だったのです。
そしてこの親国は、なんとこの三人の同母兄弟、平親宗の子だったのです。ところが親宗は、兄姉たちとは違って後白河院に接近しており、治承三年 (1179)には清盛のクーデターにより解官(公職追放)までされています。なかなかの一刻者だったようですね。しかしその甲斐あって平氏滅亡後も生き残り、中納言にまで上りました。つまりこの一族は「生き残った平氏一門」なのです。
その子の親国は永万元年(1165)の生まれ、15歳の時に父とともに解官されるなどしましたが、源平争乱も、義経追討による京と鎌倉の緊張も生き延びて、この年に至ったというわけです。だから彼も、一刻者の父や剛胆な伯父の時忠、平家の大黒柱だった伯母の時子などと同じ血なのか、なかなかにしぶといのですね。そして一説には、平清盛の長男、重盛の長男の維盛の娘、つまり『平家物語』の最後の主役と言われる「六代御前」の妹を妻にしていると言います。史実なら、かなり剛直な人物、といえるかもしれません。
しかし、世の中はなかなかうまくいかないもので、三位にまで上がりながら、彼は散位、つまり無任所の扱いを受けました。そしてこのことを気に病んで、昇進した承元二年(1208)に、ついに亡くなったと、藤原定家『明月記』は記しています。時に44歳。
しかし『明月記』には特に伊勢神宮の祟り、とはしていません。今回はそんな噂はなかったようです。
彼の死が、伊勢神宮の祟りと考えられていなかったとわかるもう一つの理由があります。彼の息子の平惟忠や、惟忠の孫の親世などが、斎宮寮の長官、斎宮頭に任じられているのです。惟忠など父を飛び越えて、正二位で参議・大蔵卿などに任じられているのですから、とても祟られていたどころではありません。
右少弁の属する弁官局は、さまざまな儀式を仕切る、太政官の要となる部局です。おそらく親国は、かなり能力の高い官人だったのでしょう。そしてこの時代の儀式は、担当者に全権を委任して執行させる体制になっていたため、こうした事業の私物化が起こり、また罰するのも難しかったのでしょう。伊勢神宮の神の祟も、そうした担当者の暴走を止められなかった所から出てきた噂なのかもしれません。
斎王制度がなくなる130年ほど前のことでした。
(学芸普及課 課長 榎村寛之)