第98話 かなかなかな・・・セミじゃない
斎宮跡の調査では色々な土器が出土しますが、ごくまれに、ひらがなを記した土器がみつかることがあります。
ひらがなは奈良時代に使われた万葉仮名をその原型としており、漢字を崩して表音文字として使うようになったものです。『古今和歌集』の「仮名序』、つまり仮名書きの序文や、紀貫之の『土佐日記』から見て、10世紀初頭にはかなり複雑な表現もできるほどに用法が完成し、行き渡っていたものと考えられています。つまり、9世紀に形成された文字だと言えるわけです。
ところが実際の発掘調査で、平安時代のひらがなを書いた物が見つかることはほとんどありません。平安京でも、10世紀初め頃の土器(土師器)に、和歌らしいひらがなを書いた例がわずかに知られている程度です。意外なことですが、木簡、つまり木の札や土器に書かれた墨書文字が大量に発見されている平城京と違い、平安京では文字を書いた資料はわずかしか見つかっていません。平安時代は奈良時代の7倍もの長さがあるのに、文字を書いた出土資料はとても少ないのです。これは、
・平安京が現代の大都市、京都の下に眠っていて、多くの貴族の邸宅がビルの下になってしまったこと
・水田の下で木製品が地下水に漬かっていた平城京と、定期的に賀茂川が氾らんしてあらいざらい流されていた平安京
などの違いが反映されているのでしょうが、もう一つの問題があります。それは、文字の使い方の相違ではないか、とも考えられるのです。
まず、平安時代になると、全国的に、土器や木簡に書く事自体が少なくなったと考えられます。関東などでは9世紀に墨書土器が爆発的に増えますが、10世紀頃には急速に衰退していきます。その他の地域でも、平安時代中期以降、木簡や墨書土器の出土はとても珍しくなります。
そもそも、なぜ土器に文字を書かなければならなかったのかは、実はよくわかっていません。所蔵者や管理している所がわかるようにしたもの(人名や役所の名)とか、特別な用途(神や仏に「奉」る、とか)を明記したものとか、まじない(意味不明の文字や短い漢文)とか、いくつかのわかる例はあるのですが、それより基本的なレベルのこと、つまりなぜ土器に直接文字を書かなくていけないのか、の明確な答えがないのです。そのために困ったのは、なぜ土器に文字を書かなくなるのか、がよけいにわからない、ということです。ひらがなというだれでも使いやすい字が普及した平安時代中期に、土器に字を書く習慣は下火になっていくのです。
ところが不思議なことに、その頃から美しいひらがなの書き手が出てくるのです。例えば、和風の書法を大成させて、後に三蹟とよばれた名筆家、小野道風、藤原佐理、藤原行成の三人の最年長、小野道風は9世紀末の生まれなのです。一見、ひらがなは都市貴族の文字として、芸術的に洗練されていったかのように見られます。
ただ、斎宮跡で見つかるひらがなは少し違います。斎宮のひらがなは、お世辞にも上手いとはいえないものが多いのです。最も古い土器で9世紀後半から10 世紀前半のものですから、ひらがなが定着しはじめたまさにその頃のもので、12世紀前半に書かれたものも多く見つかりますが、ことごとく上手くないのです。
先にふれた、平安京で見つかった唯一の長文ひらがな墨書土器は、和歌の習書で、
いつのまにわすられ
にけむあふみちはゆめの
・・・ は なり
けり
と記されています(読みは、藤岡忠美「平安宮跡出土墨書土器和歌を読―古今集時代の贈答歌・平仮名―」【『文学』 隔月刊 第6巻第3号 2005年】による)。道風前後の手慣れた書き手によるものだと評価されています。
ところが斎宮跡の墨書土器は、それほどまとまった文章もなく、出典があるのかないのかもわからない、というものがほとんどです。では、まったく下手なものばかりか、というとそうでもありません。斎宮から西北に3キロメートルばかり行った所にあり、斎宮と関係する遺跡ではないかと見られる堀町遺跡では、小さな破片ですが、9世紀末頃の「水茎」と読めるような続け字を書いた土器片が出土しています。やはり意味はわかりませんが。
その意味では、斎宮のひらがな墨書土器は、地方への平仮名の波及を知ることができる貴重な資料といえるのでしょう。
また、斎宮跡では、平安時代初期頃から、あまり上手くない漢字を書き散らした意味不明の土器がまれに見つかります。あるいはこうした漢字を散らし書きする墨書土器が、意味不明のひらがな散らしの原型かとも考えられます。
斎宮でひらがな、というと『伊勢物語』の第六十九段に、在原業平かとされる男が、斎王らしい女から杯に書かれた、上の句だけの別れの歌に下の句をつけて返した話が有名です。先の藤岡氏の論文では、こうした和歌は杯の内側に書くもので、まじないの要素があることを指摘しています。ところが、斎宮跡のひらがな墨書土器はほとんどが土器の外側に書かれています。9世紀の土器墨書には、所属明記や整頓などの実務性がなくなり、全国的にまじないの性格が強くなっていたとも考えられています。あるいはそうした伝統を受け継ぎ、それほど識字性の高くない斎宮の下級官人や下級女官などが、こうしたまじないの言葉を、土器にひらがなで書きつづっていたのかもしれません。
一方、斎宮の、たとえば斎王をとりまく女官たちの間では、もっと優美なひらがなが使われていたはずです。斎宮で数多くの歌を残した斎宮女御徽子女王のいた10世紀中頃などには、美しい和紙を透き、美麗なかな文字を書き散らすことが行われていたと考えられます。そうして生まれたのが、斎宮の人々の心象を現在に伝える『斎宮女御集』なのです。
斎宮歴史博物館では、5月6日(火)までの企画展「モノ・語る・三重」で堀町遺跡出土のひらがな墨書土器を展示しており、5月10日(土)から6月8日(日)までの企画展「源氏物語と三重」では、昨年度入手いたしました、鎌倉時代の写本『資経本斎宮女御集』を初公開いたします。
(学芸普及課 課長 榎村寛之)