第95話  女性歌人もいろいろあれど・・・・

 源氏千年紀、あけましておめでとうございます。
 昔から「日の本は岩戸神楽の昔より女なくては夜の明けぬ国」などと申しまして。日本の歴史を学ぶと意外でもなく女の方が出てまいります。世界で最も有名な日本人は紫式部、レディ・ムラサキだといわれる位、日本の女性文化人というのは、世界史的に見ても立派なものなのですね。
 しかし、考えてみれば前近代の女性が名を売るのは容易なことではありません。特に、女帝が見られなくなり、政治は男のもの、という社会、ま、九世紀後半より後、といたしましょう。このころになると、女性は夫との関係なしで政治に顔を出せなくなるし、文化的な活動といっても女性の社会的立場が認められていない時代では極めて稀になります。たしかに平安時代中期の宮廷での女房たちの役割は大きいのですが、紫式部も清少納言も赤染衛門も和泉式部も、藤原摂関家の子女教育の善し悪しが、皇后の技量となってそのまま政治に直結する、という体制でなければ、その才能を埋もれさせていたのかもしれません。
 しかし彼女らにしても、和歌・日記・随筆と多くの分野で活動をしているにもかかわらず、政治的な記録、つまり正史には一切名前が残らないのです。その点でいうと斎宮女御のように天皇の后で、歌人として文壇の長となり、時の政治方針に反抗してまで伊勢に旅立つ、なんて縦横無尽の活動をした人になれば、正史にも名前が残るわけですが、ここまでの人というのは生まれと才能と性格の三拍子が揃っていないとなかなか難しいのですね。
 でも、斎王はそもそも基本的に名前が記録されているのです。とはいえ名前以外のことはほとんどわかっていないわけですから、名簿のみが残っているのにすぎません。いわば行政資料として記録されているだけで、歴史に名をとどめる、とはいいにくいのですね。データや記録をありがたがる政治資料、つまり男目線と、実感や雰囲気を大事にする文化資料、女目線の違いなのかな、これは、などと考えることもあります。
 その中で斎宮関係の人たちが名を残すのは、やはり歌なのでしょうね。歌を遺した斎王自体は決して多くはありませんが、それでもそれなりの歌が遺されています。
 しかし実際に資料を見ていくと面白いもので、斎王と歌に関して面白い傾向があったのでご報告いたしましょう。
 筆者の好きなサイトで『千人万首』というホームページがあります。文字通り江戸時代以前の千人の歌人による一万首の和歌の紹介を志す、という壮大なホームページで、すでに800人を超える歌人を登録されているという、名実ともに世界最大の和歌サイトといえるものです。
 ここで取り上げられている歌人を時代別に見ていくと、古事記歌謡から万葉の時代を経て、平安時代中期まではだいたい20%以上が女性で、40%前後が女性という時代もしばしば見られるのです。例えば白鳳時代だと56人中24人が女性、これはかなりすごい。さらに紫式部などを含む平安時代の第三期(だいたい10世紀後半の歌人が取り上げられています)だと57人中24人、これもすごいのです。

 ところが平安末期から南北朝時代にかけては平均して20%程度が上限で、室町時代になると、なんと68人中0人、皆無になるのです。
 これは、朝廷の権力の失墜とともに後宮が解体し、女流歌人を生み出す土壌がなくなったこと、和歌の家が成立し、女性歌人の出番が減ったことによるのでしょうが、和歌が宮廷を離れ、連歌などの形で武士や庶民にも普及していったことと無縁ではありません。つまり室町時代は、女流歌人が世に出づらかった時代といえそうです。
 そしてこうした宮廷和歌の衰退は、斎王制度の衰退と、全く軌を一にしているようです。宮廷文化の衰退は、女性文化の衰退でもあったわけですね。
 ところが、斎王とは違い、女性歌人の文化は近世になると復活したようで、江戸時代歌人として採られた人の10%程度は女性なのです。その多くは大名家の奥向きの歌人や公家出身者なのですが、中には非常に面白い人もいました。それは祇園梶子(ぎおんのかじこ)といわれる歌人です。
 この人は、京は祇園の茶屋の女将なのですが、独学で歌を磨き、冷泉家にも一目置かれる存在となった名物女性だそうです。歌舞伎舞踊の『六歌仙容彩(ろっかせんすがたのいろどり)』では、喜撰法師に声をかけられて逆にやりこめる「祇園のお梶」という茶屋の女将が「小野小町の分身」のような立場で現れます。この人は今まで全く架空の人物だと思っていました。なぜなら、祇園のお梶という女性は、以後の歌舞伎作品にもしばしば出てくる「舞台の上の有名人」だからです。しかしこのモデルは間違いなく実在の「祇園梶子」のようですね。
 うーん。どうやら江戸時代の小野小町は、貴族社会を離れ、庶民の間で歌を武器に人気者になり、演劇の中で語り継がれ、伝説化していくのです。和歌はこの時代には市民社会に浸透して、まさに小町さながらの伝説の人を生み出す力を保ち続けていたのでしょうね。
 
 みる人もなぎさの花はおもひいづや たえて桜と言ひし言の葉
                                 祇園梶子
                               祇園梶子歌集「梶の葉」より
 
多謝 「水垣」様

(学芸普及課 課長 榎村寛之)

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