第93話  朝原内親王は不思議な人

 斎宮百話といいながら、斎王個人のお話があまりなかったこのコーナーなのですが、今回はちょっとした斎王個人のネタをご紹介いたしましょう。
 朝原内親王という斎王がいます。斎宮にいたのは785年から798年で、まさに奈良時代の最末期、おそらく方格地割(碁盤目状区画)に最初に入った斎王です。割合に地味な人なのですが、じつはなかなか面白い経歴の人なのです。
 この人の父は桓武天皇、母は酒人内親王です。酒人内親王は光仁天皇の娘で、その母は井上内親王、なんだか血縁には皇族しか出てきません。そして酒人と井上は元斎王です。つまり三代続いた斎王という極めて珍しい人なのです。
 ただ珍しいだけではありません。
 おばあさんの井上は聖武天皇の娘で、天智天皇の孫の白壁王を婿にしたため、その人が光仁天皇になり、皇后になったと思ったら天皇を呪詛した疑いで、息子の他戸皇太子ともども廃后されます。ところがその前に斎王になっていたおかあさんの酒人はそのまま伊勢に送られました。ところが、幽閉されていた井上が謎の死を遂げたことによるらしく、急きょ帰京することになり、他戸に代わって皇太子になった異母兄の山部親王、いわば他戸の敵と結婚します。そして生まれたのが朝原内親王です。そして山部は桓武天皇として即位し、おそらく朝原はどう見積もっても五~六才の身で斎王となったようです。後の野宮にあたる宮は春日に置かれました。ところがまもなく桓武は長岡京遷都を宣言、現地に移ってしまい、朝原は春日にとりのこされます。さすがに発遣の時には父は平城旧京に戻り、対面の儀式をして伊勢に送り出したようですが、この間に、長岡京建設総監督だった藤原種継が暗殺されるという大事件が起こります。この事件はさらに大きく発展し、この事件の黒幕として、すでに故人となっていた大伴家持は生前にさかのぼって官位剥奪、さらに皇太弟だった早良親王は位を追われ、抗議の憤死または幽閉されての衰弱死ともいわれる非業の最期を遂げ、それでも遺体を淡路に流罪されるというすさまじいことになりました。
 代わって皇太子になったのが桓武の長男、安殿親王、ところがこの人は身体が弱い上に精神的にももろく、早良親王の怨霊に祟られていると噂されるありさまでした。そして長岡京はわずか十年で廃され、平安京に移ります。
 「鳴くよウグイス平安京」の794年から二年後、朝原内親王は特に理由もなく斎宮から帰京します。ご承知の方も多いと思いますが、斎王は、天皇の譲位、崩御、身内の不幸、病気などで交替しますが、この時だけは、当時の歴史書『日本後紀』には「斎内親王、京に帰らんと欲し(斎内親王欲帰京)」とあるのみで、「何の理由も記されていない」のです。延暦十五年の二月十三日、帰京のための頓宮が大和に造られます。
 ここで面白いのは、平安時代中期なら、大和を経るのは凶事だということです。もちろん平安遷都直後で京から近江を通る東海道が未整備だったからとも考えられるのですが、何だか気になります。そして「京に帰らんと欲し」というのは、「(天皇が)斎王を都に帰さんと欲し(欲帰京斎内親王)」ではなく、主語が斎内親王なのです。つまり天皇が斎王を帰そうとしたのではなく、斎王が帰りたいと駄々をこねたので、とも取れるのです。どうも不思議な帰京をしています。
 そして帰ってきたこの娘に対して、桓武は最大限のサービスをしているようです。

延暦十五年 七月 九日 朝原内親王に三品を授ける。

十二月十四日 天皇が京中を巡幸し、朝原内親王の邸宅に立ち寄り、五位以上の者に物を与える。

十六年 二月十八日 朝原内親王が物を献上し、五位以上の者に綿を下された。

六月 七日 朝原内親王が白雀を献上し、内親王家の人々や発見者に物や位が授けられる。

十七年 九月十九日 朝原内親王に越後国の田地二百五十町を授ける。

と、わずか二年の間に、朝原内親王の暮らしは、身分的も経済的にも、みるみる整備されていくのです。この過程からは、娘にベタ甘な父親像しか見えてこないようです。もともと桓武には、井上暗殺の口封じとして酒人と結婚したような所があり、酒人がいかに享楽的に生きようとも咎めなかった、いや咎められなかった、という負い目があったので、この娘にもかなり気を遣っていたようです。
 ところが、この厚遇の先には、朝原の結婚が用意されていました。相手は異母兄弟の皇太子安殿親王、おそらく安殿が兄です。ここに男皇子が生まれたらどうなっていたか、ちょっと興味のひかれる所です。
 しかし、安殿は先に述べたように、崇道天皇とおくり名をされた早良親王の怨霊に悩まされた、不安定な青年です。おまけにどうもこの頃、別の夫人がすでにおり、しかも夫人に付いてきていたその母親と深い仲になっていたらしいのです。皇太子よりかなり年上らしいその女性の名は藤原薬子、何の因果か、長岡京で暗殺された種継の娘です。ドラマなら、「おまえを送るために天皇が平城京に行かなければ、私の父上は無残な最期を遂げることはなかった・・・」、と逆恨みされてもおかしくない相手、それが皇太子の最も愛していた女性だったわけです。桓武はこの二人の関係を怒り、薬子を宮廷から追放します。おそらくその頃に朝原は安殿と結婚したのでしょう。
 しかし、朝原の祖母はこれまた怨霊として恐れられた井上廃后、母は美麗驕慢の人として知られた酒人内親王、そして朝原自体も自分の意思で伊勢から帰ってきたような意志の強い女性だったとしたら、「マザコンで怨霊嫌い」の安殿が朝原を愛するとはとても思えません。事実、ある史料では、安殿ことのちの平城天皇は、朝原内親王を「無寵」としています。
 そして桓武天皇が亡くなり、平城天皇が即位すると、ふたたび薬子は宮廷に戻され、寵愛をほしいままにしました。しかし平城の健康は回復せず、まもなく弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位、転地療養と称して平城京に転居します。朝原がついていった形跡はありません。
 そして810年、弟の嵯峨天皇から位を奪還しようとした平城天皇は失敗して出家、薬子の兄、藤原仲成は父親と同様に矢で射殺され、天皇とひとつ輿で平城京を脱出していた薬子は服毒自殺という結果になります。朝原はどのような思いでこの報告を聴いたのでしょう。
 弘仁三年(812)、上皇妃朝原内親王はその職を辞します。皇族の離婚が明記されるのは極めて珍しいことです。そして弘仁八年、二品朝原内親王は亡くなりました。39才と推定されています。まだ存命だった母の酒人内親王は、その遺産の多くの荘園を東大寺に施入(寄付)し、娘の冥福を祈っています。
 この間の経緯はじつはかなり面白いのです。
 まず、朝原内親王が、812年段階で平城天皇と別居していたら、単に訪ねてこなくなるだけだから、自然に離婚は成立していたはずです。しかし、わざわざ「妃を辞す」、としているので、朝原はその時まで平城京にいる平城上皇と同居していて、離婚して都に帰ってきたともとれます。しかし、平城上皇は当時出家していたのだから、同居女性がいるだろうか、そもそも平城上皇の乱の前には二人の関係は終わっていたはずなのに、という疑問があります。当時、元天皇の夫人も、その天皇が亡くなったり、出家したりして、夫婦関係がなくなっても、例えば皇后が皇太后となるように「妃」という位を保持できたのかもしれません。とすると、妃を辞した時の朝原は、出家した元天皇の『元・妻』として妃の地位を保っていたことになります。ならば、妃を辞するとは、朝原の「あんな人の元・妃として扱われるなんて嫌、私は私」という強烈な意志の表れなのかもしれません。
 そして朝原は、没した時、大量の荘園の持ち主でした。桓武からもらった越後の二百五十町の田地や、その他にも多くの土地を持っていたのでしょう。これらの土地は、平城と結婚した時に一旦国家のものとなり、離婚の後に手元に戻ったものなのでしょうか。私にはそうとは思えません。平城天皇の妃だった時代の朝原内親王は、天皇とは別に自分の財産を持ちながら、平安宮の内裏で暮らしていたのではないかと思われます。そして天皇が上皇となり、平城京に移ってからは、おそらく桓武がかつて訪れた朝原内親王の邸宅で暮らし、ずっと別居生活を続けて、ついに妃の身分を捨て去ることに成功し、大荘園領主として自立したと考えられるのです。
 朝原内親王は、父や夫の意図に反し、自らの生き方を貫いた女性だったように思えてきました。それは、祖母・母と三代にわたってこの家系を振り回してきた男たちの思惑への強烈な「NO!!」であったのかもしれません。

(学芸普及課 課長 榎村寛之)

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