第88話 丁長遺跡と長谷町遺跡
斎宮歴史博物館の調査研究課は、国の史跡に指定されている斎宮跡の範囲内で、学術的な発掘調査や、そこにお住まいの方々の生活改善にともなう現状変更の発掘調査を行っています。しかし調査は史跡内だけで、史跡外の斎宮関連遺跡は、明和町と三重県埋蔵文化財センターが発掘調査を行っています。
今回はその中から、博物館の特別展示室で行われる埋蔵文化財センター速報展『はっくつ三重みえ』にて展示される、斎宮に関係するかもしれない気になる資料を二つご紹介します。
まずは丁長遺跡。「ちょなが」と読みます。史跡の東端から東にしばらく歩いたあたりで発掘された遺跡で、ここでは幅9メートルの道路跡が確認されました。時代は明確ではないのですが、奈良時代から平安時代前期頃のものと考えられます。この道路は斎宮跡で確認されている奈良時代道路跡の延長線にきれいに重なるのです。奈良時代の官道は幅十メートル前後の直線道路であったことが知られていますが、この道もその規定に沿って造られていたことがわかります。
その意味での注目点を二つ。
①斎宮跡より東は標高が次第に低くなり、低湿地になっていくので、近世の参宮街道ができるまでは直進道路はなかったのではないか、と考えられていました。実際、中世には台地の上をいったん南下してから東に向かうのが一般的だったようです。ところが奈良時代には低湿地の中の微高地を選び、直線設計を優先していたことになります。道路の造成にかなりの労力をかけていたことがうかがえます。
②道路の側溝を見ると、斎宮跡の道路では平行する側溝跡が何本も見つかっており、時代に応じて次第に細くなりつつも、向きが維持されていることがわかります。しかし丁長遺跡の道路側溝はあまり掘り返された痕跡も、次第に細くなっていく傾向もありません。あるいは比較的早くに廃棄されたのかもしれません。
いずれにせよ、8~9世紀に斎王や勅使が確実に通った道路跡が見つかったことの意義は歴史地理学、あるいは交通史だけではなく、斎宮や神宮と国家の関わりを考える上でも大きな意義のあるものです。
次に長谷町遺跡は、「町」の名に関わらず山中の谷間の遺跡です。近世に造成された貯水池の改修に伴って発見されました。ここでは9世紀後半の灰釉陶器壺に火葬された骨を納めた墓が発見されました。平安前期の火葬墓は三重県中部では極めて珍しいものです。
この遺跡の最大の関心は、もちろん被葬者です。灰釉陶器の壺を骨に転用できる人物とは何者なのでしょう。この灰釉陶器は、尾張国(愛知県)の猿投窯の製品で、もともとは頸のあった壺でした。その頸を丁寧に打ち欠き、できた穴に別の灰釉陶器の皿の底部をはめ込み、その上にさらに別の灰釉陶器の椀をうつぶせにかぶせています。まわりにはびっしりと炭を敷き詰め、上には数点の土師器の皿が置かれていました。十世紀の火葬記事などで、骨壺は「瓶子」に容れ、白瓷の皿をかぶせ、周囲を炭で覆うという慣習が記されています。おそらく灰釉陶器の壺と椀と炭はこれらに対応したものでしょう。
しかしながら大きな問題は、文献に現れる火葬は、大きな遺骨の一部を壺に入れ、残った部分はその地に葬り、火葬塚を造るとしているのに対して、この壺には、成人一体分の可能性がある遺骨が入っていて、いずれも細かい骨だということです。墓の近くには焼土が確認され、そこで火葬したのではないかとも指摘されています。つまりもしかしたらこれは火葬塚で、本体の墓は別にあったかもしれないのです。そのように考えるもう一つの理由は、供物を容れたらしい土師器の他に副葬品ほとんどないことです。いかに薄葬の時代でも、京都周辺の墓なら、鏡や高級陶器など、副葬品がもっと見つかっています。
このような見方をすると、この墓の位置づけも複雑になります。
この墓のある長谷町遺跡は、斎宮と同じ明和町内の遺跡ですが、南方に五キロ程とかなり離れており、水系も斎宮とは異なり、谷自体は玉城町外城田地域に開かれています。ここは内宮の祢宜を勤めていた荒木田氏の本拠の一つです。また、やはり五キロ程西に行けば、櫛田川に出ます。そのあたりには平安時代には東寺領大国荘がありました。そうしたところから被葬者は、
①斎宮関係者説
②荒木田氏関係者説
③大国荘関係者説
などの推測がなりたちます。もっとも、これらは完全に対立していたわけでもなく、荒木田氏で大国荘の経営に関わっていたり、斎宮に関わっていたりした者もいるでしょうから、話は単純ではありません。そしてこの被葬者については今ひとつ大きな問題があります。骨の特徴から見て、成人女性、それも頭蓋骨片の融合線から、比較的若い可能性が高いということです。
①斎宮関係者説の利点は、大型灰釉陶器壺のようなものがもっとも確保しやすいことと、単独で火葬墓を作られるような身分の女性がいた可能性が一番高いのは斎宮だという点です。問題点は斎宮との関係を推測させる遺物がほとんどないことと、斎宮から数キロ離れているという立地、そして墓が斎宮の方を向いていないことです。
②荒木田氏説の利点は、伊勢の立地が外城田地域の外縁部だということです。つまり荒木田氏の領域内に営まれた墓だと考えられることです。この場合、荒木田氏内部の有力な女性が被葬者だということです。問題点は、神宮神官の荒木田氏が火葬墓を積極的に営むだろうか、ということと、女性の火葬墓がぽつんとあることの意味がわからない、ということです。
③大国荘関係者説の利点は、仏教との関係で火葬墓が説明しやすいことです。問題点は、遺物に仏教的な性格のあるかどうかが判らないことと、距離的には斎宮と変わらないが、間に山があったりしていて、生活圏としては遠い、ということ、そしてやはり、単独墓を営まれるような女性がいたかどうか、ということです。
しかしこの墓が火葬塚だとすると、墓の本体は別にあることになり、考え方が大きく変わります。何より、周辺に同時代の火葬墓が全く見られないことに注意すれば、例えば、何か特殊な事情があってこの場所で火葬しなければならなかった、あるいはこのあたりが平安時代の京都の鳥辺野のような風葬の地で、そこに火葬が行われた、というような仮説もありうるのです。とすれば、どこの生活圏に入るのか、という議論は無意味になるのかもしれません。
そして、この骨蔵器が、細かい細工で蓋をされていたことも注意点です。このような埋葬方法は、あるいは変死をした魂が出てこないための封印だった、という仮説もあり得ます。
さらにこの土器が、既存の壺を改造したものだということも気になります。つまりこの壺は、骨を納めるための壺として造られたわけではないということです。蓋として使われた椀や、供御の土師器の年代とも比較して、どの程度使用されて廃棄されたのか、この壺を使うことに意味があったのか、そして墓の造営年代はいつか、などの疑問を慎重に検討していく必要があるのでしょう。
このようにこの墓は、極めて貴重な資料でありながら、まだまだ不明な点が多いのです。
以上二遺跡の資料が公開される「はっくつ三重みえ」展は、平成19年5月19日(土)から6月10日(日)まで博物館で開催されています。この機会にぜひとも御覧いただきますよう。
(学芸普及課 課長 榎村寛之)