第87話  山里のさくら

 博物館では四月に入るとサクラの花盛りです。史跡公園の中のやや早咲きの里桜や山桜に、道沿いなどに植えられたソメイヨシノも追いついて、今を盛りと咲きそろいます。
 そして四月半ばに散った後も、後半にかけては奈良時代古道沿いの八重桜が盛りを迎えます。華々しいというほどではありませんが、斎宮の四月は文字通り桜月となるのです。
 さて、斎宮の桜の歌としてこういう歌があります。
  をる人も なき山里に 花のみぞ 昔の春を忘れざりける。
 斎宮女御と呼ばれた徽子女王(929-985)が、娘でやはり斎王となった規子内親王(949-986)とともに斎宮を再訪した時に詠んだ歌です。第5回でも少しふれたのですが、この歌には「斎宮つくりかえたるころ、昔見けるはやくの宮を見やれば花さきたるを、ながめやりて」という詞書があります。あるいは、徽子が斎王だったころの宮、つまり昔の内院の跡に咲いている桜の花を見て詠んだ歌ではないか、とも考えられるのですが、それはともかく、面白いのは「山里」という言い方です。もちろん斎宮は台地の上にありますから、史跡の中に山はありません。でも山里と読んでいます。これは国文学の方に専門的な研究があるらしいのですが、別に「山中または山間部に所在する集落」という意味で「山里」と言っているわけではなく、要するに「田舎」の意味で「山里」という語を使っているらしいのです。一見するとすごくへりくだった言い方のようにも見えます。
 ところで、「山」はいくつかの意味のある言葉です。今ではほとんど使われていませんが、「地面の盛り上がった所」の他に「墓所」の意味、そして「採木地」の意味もあるのです。採木地とは、村落単位で共同利用する林のことで、自然林であれ植林であれ、村で管理し、材木や薪を共同使用する所のことです。つまり「山」という言葉には「村の端の林」というイメージもあるのです。
 この例から、平地でも「山(=林)のある里」なら「山里」だ、と認識されていたのであれば、斎宮が「山里」と呼ばれていても不思議ではない、ということになります。
 かなり無理な考えのようにも見えますが、じつは意外に面白いのです。というのは、斎宮あたりでは、今でも平地の林のことを「山」といい、字(あざ)にも「木葉山」「鍛冶山」という言い方が残っているのです。そして鍛冶「山」は、奈良時代末期から平安時代前期にかけて、斎宮の内院、つまり方格地割の中心部分にして、現在十分の一模型で再現されている斎王の宮殿部分が置かれていた所なのです。
 鍛冶山地区の、正確には鍛冶山西区画と呼ばれる内院は10世紀中盤頃に廃棄され、斎宮は隣接し、内院の西区画を形成していた牛葉東区画に集約されたと考えられています。その後、この区画では建物跡は確認されていません。つまり放置されていたようです。そして徽子女王が斎王として伊勢に滞在していた頃の斎宮は鍛冶山西区画、娘の規子内親王に付いてきていた時は牛葉東区画ではなかったか、という見方があります。牛葉東区画に住まいし、かつて暮らした区画、今は放棄され、荒れるにまかせた区画の桜を見て詠んだのが先の歌だとするならば、「山里」と言われたのは斎宮というより、鍛冶山区画だけのことなのかもしれません。そしてこの区画は、以後も「山」と呼ばれ続け、いつか「鍛冶山」となった、という思いつきはいかがでしょう。

(学芸普及課 課長 榎村寛之)

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