第86話  元斎王の人生設計

 これまで、博物館では、都に帰った斎王の多くは結婚もせず、歴史に名を残すこともなく、死去まで何の記録もない人がほとんどだと言ってきました。事実、元・斎王がとのような形で生計を立て、どのような人たちに支えられて人生を送ったのかについては、大来皇女が自分の「宮」を持っていたらしいとか、平安時代の始めの斎王、朝原内親王や布勢内親王が多くの荘園を持っていたなどといった断片的な史料からうかがわざるを得なかったのです。
 ところが、視点を少し変えることで、その後の斎王について知ることができる手がかりをみつかったのでご報告します。
 史料は「我が身にたどる姫君」(現代語訳は今井源衛・春秋会役 桜楓社 1983年より)、鎌倉時代に書かれた擬古物語、つまり平安時代を舞台にした、当時の「歴史小説」で、一般的にはほとんど知名度がありません。筋立ては複雑で、一口には説明できないのですが、関白と皇后の間に秘密の子として生まれた姫君が、色々なめぐりあわせからある皇族と結婚して、夫がたまたま天皇になったので皇后になり、その子や孫まで天皇になって、という一代記です。その間に描かれる複雑な宮廷模様が見どころとされていますが、一部の研究者に有名なのは、第六巻で主人公的な役をつとめるのが、同性愛者の斎王だ、ということです。そのため、この物語は扇情的・退廃的な小説、または斎王制度の衰退を象徴する小説、と言われてきました。それはそれで間違いないと思うのですが、別の見方も隠されていると思うのです。それは、話にリアリティーを持たせるためには、設定をしっかりとしたものにする必要があるだろう、ということです。つまり、斎王の異常性を描くためには、彼女の日常性は読者にごく自然に見えるものとしておくだろう、という見方です。
 具体的には・・・。
 伊勢から帰ってきた前斎王は、嵯峨院と呼ばれる上皇の娘です。嵯峨院は主人公の「我が身姫」から見ると、夫の新院の兄で、今の天皇から見ると、前の前の前の天皇になります。我が身姫はこの時点では先の皇太后として出家しており、その子の三条院の譲位によって、その皇后が女帝となっています。で、この女帝も嵯峨院の娘なのです。ところが斎王の母は御匣殿、つまり天皇の御服を縫製するために近侍する女官でした。そして、嵯峨院にとってこの娘は「見も知らぬ」人だったのです。つまりは初めから里で育てられた皇女で、おそらく三条院の時代の斎王となってようやく内親王として認知されたものと思われます。
 そして彼女は、京に帰ってくると、まず母の実家、おそらく彼女の育った家に入りました。もっともすでに母は亡く、今はその妹の「大納言の君」という女性が尼になって暮らしているだけ、という状態でした。京に戻った斎王が、新しい邸宅を与えられることもなく、自分の育った家に帰ったらしい、というのは平安時代にもしばしば見られることではありますが、当時としても自然だったのでしょう。
 一方、父の嵯峨院は同居を拒否し、「それでも勅旨田など一箇所ぐらいは大納言の君にとっても何かと不自由であろうと分けてさし上げなさった」とあります。勅旨田は天皇の私有地として指定された土地ですから、天皇が斎王を抱え込む家族のために、私有財産を分けてやる、という設定なわけです。
 で、斎王はこの叔母の家できままな暮らしを始めます。叔母の家は尼が女房を使って暮らしている家なので、古びた格子が隙間だらけ、という状態なので、楽に垣間見できますが、斎王はおかまいなしのようです。それでも斎王の部屋は「田舎家とはいえやはり一目瞭然立派」にしつらえられていました。その斎王のまわりには多くの女房がいたようで、その中に斎王のお気に入りの女房たちがおり、斎王とただならぬ関係になっているのです。斎王は、物堅い叔母の大納言の君とは当然そりがあいませんが、叔母が顔も見に来ないので「今まで伊勢で自由な暮らしに馴れてきたから、此処ではしちめんどうくさいことになるかと思ったら、放っておかれてとても結構だわ」とのびのび暮らしています。また、年末などには嵯峨院から女房たちに衣装が届けられたりもしています。

 しかしこの斎王は、ただ平安に暮らしていたのではありません。彼女は伊勢以来の恋人であった中将という女性(斎宮の女官か、斎王の私的な女房かは不明)から、ここ三、四年の間に、小宰相という、乳母の親せきの娘で、都に身より頼りがなくて斎宮に来た女性に心を移していました(つまり斎王が伊勢にいる間に女房や女房の新規採用もあったとしているのです)。そして捨てられた中将の君の生霊は「もののけ」となって斎王を苦しめ、悪いときには「御もののけがしつこいからといって、南正面の妻戸を開けっ放しにして、草の露がしとどに下りた庭にふわりと臥せったりなどなさる」ありさまで、回りの女性たちも恐れ、小宰相すら斎王の扱いには手こずっていたのでした。
 さて、斎王は「伊勢では、いかにも粗略な扱いはお受けにならなかったお暮らしに馴れて」いました。そのため、嫉妬深いものの普段はおおらかな所があり、まわりの女房たちにも、「みっともない身なりをしないで、すぐに少納言(乳母の代わりをしていた古参の女房)に言うように」、と言っていました。「パンがなければお菓子をおあがりなさい」と言ったマリーアントワネットの小型版という感じですね。

 しかし、嵯峨院からいただいた尾張国の勅旨田もしっかりしたものではなかったので、次第に生活に困るようになってきました。勅旨田というのは、国家に納める税を免除され、その代わりに天皇個人に収穫の一部を納める土地のことですが、鎌倉時代にはこうした体制は次第に空洞化し、地元の有力者に横領されて実態がなくなる勅旨田も多かったようで、この物語はそうした社会的な特徴をよく捉えています。
 一方、斎王は、伊予、常陸と呼ばれる伊勢出身の女房、つまり斎宮で雇用した女房も京に連れてきていたとしています。伊勢出身で伊予や常陸と名乗るのは変ですが、鎌倉時代なら形式化した受領号(伊予介とか常陸大掾など)を名乗る在地の有力者がいて、その子女が斎宮に奉仕していたというのは十分に考えられることではあります。もともと、安芸とか甲斐大夫(大夫は五位の位を持つ貴族身分の人、その眷属という意味の呼び名)と呼ばれる、貴族身分の女房らしき人たちもいたわけで、おそらく斎王は、かなりの数の女性を養っていたと考えられるのです。これでは没落していくのは目に見えています。おまけに叔母の大納言の尼は愛想を尽かして、自分の家財道具を持って出ていってしまったので、斎王たちはますます困ることになりました。斎王に仕えた若い女房の新大夫の君は、右中将という若い公達を斎王にあっせんしました。このことはそれなりに貴族社会にも知れ渡ったのですが、斎王がいささか変わり者なのであまりうまく行きませんでした。
 そして、第十六段では、斎宮にお仕えしている人たちまでもが、どうしようもない程に暮らしが苦しくなり、御所へ足繁く出入りするようになってしまいます。そしてこの噂は、斎王の姉である時の天皇(女帝なのです)の耳にも入り、心苦しく思った天皇は、彼女の母である故嵯峨女院から引き継いだ荘園のうち、斎宮の身分にとって面目が立つだけのものを斎王に分与することにしたのです。
 こうして斎王は経済的な心配がなくなり、後ろ盾に女帝がいるからと、世間も大事にするようになります。そして、もともとおおらかで物惜しみをする人ではなかったので、仏教儀式や物詣なども思いのままに行い、自由な余生を送れるようになったのでした。
 以上のように、この物語には、同性愛云々を除いても、鎌倉時代の貴族が描いた元斎王のイメージがかなり濃厚に投影されているようです。
 まとめると、
 「京に戻った斎王は、実家に入って、天皇がその家に援助を行うことになっていたようです。前斎王の生計は天皇から贈られた荘園などによって維持されていたわけで、羽振りがよければかなり安楽で、社会から大事にされる生活も送れたようです。しかし、斎宮にいた女性たちはそのまま斎王の家に仕えており、伊勢で雇用した女房や、その関係者まで連れて戻っており、特に上級の女房と斎王は公私ともにかなり近しい関係でした。この眷属の多さは負担になることもあったようで、与えられた領地の善し悪しによっては経済的にはかなり苦しい状態にもなっていたとも見られます。」
 こうした社会的な認識を踏まえて、『我が身にたどる姫君』の著者は「前・斎宮」像の設定を創ったと考えられるのです。
 ここで読み解いた元・斎王像は、美麗と富貴と高慢で有名だった平安時代の酒人内親王(桓武天皇の時代の斎王)や、伊勢以来の女房が身近にいたとされる『源氏物語』の秋好中宮、身近な女房が男の手引きをしたと伝わる当子内親王(三条天皇の時代の斎王)など、平安時代の元・斎王の記録とも重なる部分が見られます。また、捨て育ちにされた内親王が斎王になった例や、一時期恋人を通わせていた元斎王の例も鎌倉時代にはありました。おそらく鎌倉時代においても、帰京後の斎王についての具体像は大きく変わっていなかったということなのでしょう。
 今回は、物語の記述から、歴史に残る大事件以外の歴史像がうかがえるのではないか、という視点から問題提起をしてみました。

(学芸普及課 課長 榎村寛之)

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