第85話 しみじみ斎王、じみじみ斎王
斎宮660年の歴史の中で、斎宮に滞在した斎王は50人以上を数えます。そのうちには、大来皇女や斎宮女御徽子女王のような有名人もいれば、ほとんど知られていない人もいます。今回取り上げます恭子女王もそうした知られていない斎王の一人です。
見ての通りこの斎王は女王です。女王の斎王は内親王より身分が低いので、記録も少なくなるのですが、この斎王に関していえば、ただそれだけではない問題があるのです。
たとえば、斎王であった時期がすごく短かったのか、というととんでもないのです。彼女は寛和二年から寛弘七年まで、つまり986年から1010年まで、何と24年にわたって斎王であり続けました。この記録は歴代斎王でも五本の指に入る長いものとなっています。
では、この時代がとても記録の少ない時代だったのかというと、そうでもなく、藤原道長の『御堂関白記』、藤原実資の『小右記』、藤原行成の『権記』など、貴族の日記として完成度の高いものがいくつも残されていて、当時の国史である『日本紀略』もあり、決して史料の少ない時代ではありません。
ではこの斎王が取るに足らない存在だったのか。たしかに彼女は女王で、時の帝の一条天皇からすれば父の兄の娘、従妹にあたります。近い関係ではありませんが、彼女の父は為平親王(952~1010)といい、一条天皇の父、円融天皇と同じく、村上天皇を父に藤原師輔の娘で皇后の安子を母に生まれている極めて血筋の優れた皇子でした。つまり恭子は、安子の甥にあたる、かの藤原道長の従兄弟の娘でもあるわけです。天皇家と摂関家の血を引く女王というのは、決して軽んじられるものではありません。
にもかかわらず彼女の記録はほとんどないのです。
その理由の一つには、彼女の母に関わる問題があるのかもしれません。彼女の母は、右大臣源高明(914~82)の娘でした。高明は醍醐天皇の皇子で、かの斎宮女御の父、重明親王の兄弟です。しかし、彼は早くから臣下に降りて源氏を賜り、源高明と名乗り、藤原氏と肩を並べ右大臣まで出世しました。醍醐天皇の子供たちには才能豊かな人物が少なくないのですが、高明も『西宮記』という重要な儀式書を著し、和歌、音楽などにも通じており、また政界の実力者藤原師輔(908~960)の娘を二人も妻にしているなど、摂関家とも深く関わっていました。
さて、この高明、誰かに似ていませんか。才能豊かで血統が良くてしかも源氏で、摂関家と婚姻関係を持っている、というと光源氏に非常によく似ています。そう、古くから光源氏のモデルの一人と言われているのです。ところがこの立場が彼に災いをもたらします。安和二年(969)、源満仲という男が、皇太子を廃して為平親王を擁立する計画があり、その背後には、為平の妻の父である源高明がいると密告したのです。この事件は、「安和の変」と呼ばれ、師輔亡き後の後継争いで、高明の失脚を狙った藤原氏の陰謀と説明されています。これにより高明は大宰権帥に左遷され、九州に飛ばされ、一方源満仲は摂関家とつながりを強くして、その子孫からは源頼光、義家、頼朝らが出てくるのです。
さて、恭子女王が斎王に選ばれたのは3才だと『日本紀略』に書かれています。とすると彼女は984年生まれです。つまり彼女が生まれたのは安和の変の後で、すでに源高明は世を去っており、為平親王が政治的な影響力を全く無くしてからの娘だということになります。つまり彼女は、血筋はいいけれど、栄光が過去のものになっていた家に生まれた姫だったわけです。寛和元年(985)12月、為平親王の娘、婉子女王が花山天皇の女御となります。このことが関係してか、為平親王は安和の変以来16年ぶりに昇殿が許されます。いわば本当の意味で謹慎が解けた、ということになるわけです。ところが花山天皇は翌年、摂関家の策謀により突然の出家をとげて退位、婉子は捨てられてしまいます。代わって即位したのが従弟の一条天皇で、恭子女王はその直後に斎王となったのです。なんだか為平親王は、宮廷での地位を回復するために、娘二人を天皇に差し出した、とも見えないことはありません。実に権力者の我がままに振り回された一家、といえるのでしょう。
恭子女王が伊勢に向かうまでの記録は、当時大納言だった藤原実資の『小右記』に詳しく、「別れの櫛」の儀式などの重要史料となっています。実資はこの頃、フリーになった婉子女王と恋愛関係にあり、後に再婚相手となります。ところが伊勢に行ってからの恭子女王の史料は全くありません。伊勢に送られた時にわずか5才でそれから22年、27才で帰京するまで、彼女の記録は『小右記』には全く出てこず、他の記録類でも、わずかに長保二年(1000)に着裳、つまり成人儀礼を行ったという記事が見られるだけです。有能な官人で一条天皇の時代では最高の知識人とされた実資ですら、妻の妹には興味を示していないのです。このころの斎宮の遺跡を見ても、建物は減り、土器もつつましく、かなり簡素化したものとなっています。伊勢の恭子女王が必ずしも満ち足りた生活を送っていたとは考えにくいのです。
そして彼女は父、為平親王の死去により解任されて帰京するのですが、その直前から一条天皇は健康を害していたらしく、恭子帰京の三日前には、不予、つまり予断を許さない状況になり、翌月には退位して亡くなってしまったのです。そのため、一条天皇の病気については詳細な記録が記されているのに比べ、『御堂関白記』・『小右記』・『権記』、つまり、それぞれの筆者である左大臣道長・大納言実資・中納言行成、いずれもが彼女の帰京については全く記していないのです。
そしてこの後、彼女の史料は全く途絶えてしまいます。
数え年3才で斎王となり、22年を斎宮に暮らした恭子女王にとって、都の記憶も両親の記憶もおそらくほとんど無かったことでしょう。彼女の人生での故郷は、この斎宮ではなかったか、そして伊勢生まれ伊勢育ちの斎王と自覚していたのではないかと思うのです。京に帰った時にはすでに父はなく、姉の婉子も世を去っていました。母である源高明女の消息もよくわかりません。彼女の余生は決して華やかなものではなかったと思われます。
そして恭子が伊勢にいた時期に、宮廷では紫式部が『源氏物語』を書いていました。源氏のモデルとして高明をイメージしつつ、伊勢にいるその孫に思いを馳せることはあったのでしょうか。『源氏物語』の斎宮は時の帝と結婚して秋好中宮と呼ばれ、源氏の養女として栄華を極めています。
王朝の華、栄華の時代と言われた一条天皇の時代の陰に、大人たちの思惑に翻弄され、時代の波の中に消えていったこんな少女の物語もあったのです。
(学芸普及課 課長 榎村寛之)