第83話 斎宮の「秋の庭」
秋です。朝夕の温度差が大きく、不安定な天候ではありますが、それでも秋です。
秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる(藤原敏行 古今和歌集)
という古歌などつい口遊んでしまう季節です。
さて、秋といいますと、斎宮にはかかわりの深い季節ではあります。斎王群行が秋九月、神宮神嘗祭も秋九月、その前月の八月晦日には大淀の浜まで出て禊を行うなど、斎王にとっては、斎王の本領を発揮するべき時期なのです。
しかしその一方で、秋が詩的な季節であることも忘れてはなりません。『古今著聞集』という鎌倉時代に編纂された説話集の、巻19第651話に、このような話があります。
天禄三年八月規子内親王野宮に前栽植ゑて歌合の事
天禄三年八月廿八日、規子内親王、野宮にて御前のおもに、薄・蘭・紫苑・草香・女郎花・萩などをうへさせ給て、松蟲・鈴蟲をはなたせ給けり。
天禄三年は972年、この時、規子内親王はまだ斎王に卜定されていませんので、野宮は矛盾するのですが、話の中では、野宮にその母、斎宮女御徽子女王とともにいたとしています。そしてその居住する建物の前庭に、色々な秋の植物を移植させ、松虫や鈴虫を放して、花と虫の音色を楽しんだ、としているのです。
ここでいう「前栽」とは、「庭園に植える草花」の意味で、九世紀の漢詩集『凌雲集』の藤原冬嗣の詩を初出とするといいます(飛田範夫『日本庭園の植栽史』 京都大学学術出版会 2002)。そして「季節や行事によって植え替えることが出来る手軽さ故に、庭主の庭に対する意思や意識を表現する手段ともなった」(京樂真帆子「史料から見た平安京の庭園」 奈良文化財研究所「平成18年度古代庭園研究会」報告 2006)と指摘されており、11世紀初頭頃になると、前栽掘りと称して、貴族たちが野に出て、権力者のために数寄な草木を集めて献上するイベントなども行われていたほどに、それについての貴族社会の関心は高いものでした。
この規子内親王の前栽の新しさは、マツムシやスズムシを放したことにある、と庭園史の側からの指摘があります。それまでの植栽や景観主体の庭園に、音響を持ち込んだ新しさがある、というわけです。おそらくその発案者は規子ではなく、歌人として知られた母、斎宮女御だったと考えられます。こうした趣向が全くのオリジナルだったかどうかはともかくとして、歌人として広く知られた人の発案だからこそ、貴族社会で話題となったのでしょう。まもなく、この庭園のミニチュア、つまり山里の垣根に鹿がたたずむさま、とか、浜辺に鶴が降り立つさまとかを造り、実際に草を植え、虫を鳴かせるというような趣向の模型が届けられるようになったといいます。そしてついに、こうした趣向を集めた歌合が開催されました。「規子内親王前栽歌合」として、後世までも広く知られた歌合がそれです。
この催しの記憶は、例えば『源氏物語』の「野分」巻にも見られます。野分(台風)の翌朝、六条院の秋の町にたまたま里帰りしていた秋好中宮(源氏の隠し子、冷泉の帝の妻で、六条御息所の娘)のところで、前栽に、紫苑・撫子・女郎花など秋の花の名の色で染められた衣装を着た童女を下ろし、ここかしこの草むらで虫かごに露を集めさせる、という有名な場面は、こうした趣向を思い起こさせる効果があったものと考えられます。
さて、この趣向は野宮のものだったわけですが、斎宮ではどうだったのでしょう。『斎宮女御集』からは、斎宮に「みかはのいけ(御川の池)」という遣り水があったこと、そこに「あやめぐさ(現在のアヤメかハナショウブかは不明)」が生えていたこと、桜が咲いていたことなどがうかがえるので、やはり斎宮の御前、すなわち内院の寝殿の前庭には庭がしつらえてあったものと考えられます。
そしてこの庭に関わる、徽子・規子母子の唱和が伝えられています。
八月許に月のあかき夜、御ことどもしらべたまふに、虫のいとあはれになきければ、
女御
虫の音もかきなす琴ももろ声に みにうらもなき月さへ見る
宮
月影のさやけきほどになく虫は 琴の音にこそたがはざりけれ
内院寝殿の前にはやはり前栽があり、そこにはやはり虫が鳴いていたのでしょう。前栽をしつらえて虫を放すという「野宮」の趣向は、斎宮でも行われていたのかもしれません。池や水路はともかく、前栽のような施設は発掘調査ではまず見つかることはありませんが、こうした資料から、往時の斎宮の様子をうかがうことは十分可能なのです。
帰宅が遅くなり、夜に斎宮跡を歩くと、今でも一面虫の声です。月明かりの下で聴くと、なかなかに風流なものなのです。ただ、マツムシ(平安時代のスズムシ)はあまり鳴いていないようです。木に止まって鳴くという外国種のアオマツムシはしきりに鳴いているのですがね。
(学芸普及課 課長 榎村寛之)