第82話  特別展『斎宮のおひざもと』開催中!

 斎宮が置かれていた所は伊勢国多気郡といいます。『皇太神宮儀式帳』といわれる平安時代初期に成立した神宮からの上申書には、このあたりの在地豪族として「竹首吉比古」という人物が見られることから、7世紀中頃に、「評」という支配単位がこのあたりに置かれた頃には、「竹評(たけのこおり)」と呼ばれていたことがうかがえます。
 この多気郡には「有爾鳥墓(うにのとつか)村」という地名も見られます。ここも当時の中心地だったらしく、神宮の事務局のような施設は、当初ここに置かれていたとも『儀式帳』には記されています。
 こうした地名は、主に斎宮周辺やその東に分布しています。このあたりは台地の上で、6世紀~7世紀初頭頃の後期古墳なども濃密に分布しています。
 ところが多気郡内には、こうした高燥台地とは全く違った景観もありました。この台地
の東西には、河川の氾濫原の低湿地が広がっていたのです。こうした土地は、奈良時代以前にはほとんど手が付けられていなかったようで、そうした土地をはさんで、多気郡と東の度会郡、西の飯野郡が分けられていたとも考えられます。
 ところがこうした低湿地のうち、櫛田川と竹川(今の祓川)という大きな流れがあった西側の低湿地では、平安時代初期に大開発が行われていたようです。そのきっかけとなったのが、斎王布勢(布施)内親王領の囲い込みでした。
 布勢内親王は、桓武天皇の皇女で、桓武の代の二人目の斎王、延暦15年(796)、平安遷都の二年後に斎王となった、つまり平安時代最初の斎王といえる人です。この斎王の人となりは全く伝わっていませんが、かなりの資産家だったようで、摂津国の垂水荘など、大きな荘園の領主になっています。その領地となったのが、今でいうと、櫛田川と祓川の分流点の近くの一体、兄国(えぐに)・弟国(おうぐに)といわれるあたりです。
 ところが後にこの荘園は東寺に寄進されて、東寺領大国荘となりました。つまり斎王のものが寺のものになったわけです。仏教を忌避していたはずの斎宮に関わる土地が寺のものになる、というのはおかしな話のように見えますが、東寺は西寺とともに平安京内に計画配置されたただ二つの寺で、いわば国立宗教機関です。そして結婚する可能性が極めて低い内親王に与えられた領地は、いわば私産を持たない(公地公民を建前とする律令国家の長ですから)天皇家の隠し口座のようなものとも考えられます。とすると、布勢内親王家から東寺へというのは、天皇家領地の名義写しということもできそうです。
 さて、大国荘が成立した場所は、櫛田川が佐奈谷から流れてくる佐奈川をあわせて水量を増して、谷あいから平野に出た所です。このあたりで開発が行われるということは、河川改修や用水の施設など農業基盤の整備も国家の補助で行われるわけで、当然その下流部もおこぼれに預かります。
 そして実際の開発作業は布勢内親王家や東寺が行うのではなく、現地の関係者に委託されるのですから、氾濫を繰り返す荒地を抱えた現地の人々には、余分な仕事が増える反面、おいしい話だったとも考えられます。
 で、大国荘の開発の場合も請け負った在地の有力者がいるわけで、何もない荒地への投機的な開発ですから、今風に言えばベンチャービジネス系の新規参入者が多かったのです。そういう人を田堵(たと)といいます。ところがこの田堵層には、じつは神宮の内宮禰宜である荒木田と、外宮の禰宜の度会氏に関係する人が多かったのです。神宮では祭祀の責任者、つまり管理職は貴族級の身分である祭主と、神宮の事務局長ともいえる宮司で、これは大中臣氏が勤めていました。しかし祭祀の実務は、在地に強い影響力を持つ荒木田・度会両氏が行っていて、ここにも潜在的な対立の火種が見られていたのです。
 さあ、仏教嫌いの神宮関係者が、寺に名を借りた国の「私有地」を耕作するという、不思議な時代がはじまりました。そしてこうした大開発は、大国荘だけではなく、櫛田川の下流域にも及び、多くの人の思惑を巻き込みながら、この地域、斎宮のおひざもとの様相を一変させていくのです。それこそが、斎宮における、古代から中世への転換の発端となった出来事でした。
 さて、神と仏、神宮と東寺と斎宮と伊勢国府、神宮の宮司と禰宜、いろいろな火種を抱え込みながらスタートした大国荘にどのような歴史が刻まれていくのか、それを語るのが、秋の特別展『斎王のおひざもと―斎宮をめぐる地域事情―』です。
 シンプルな古代からパッチワークのような中世へ、今まで知られなかった斎宮の歴史が秋の特別展で明らかになります。
 どうぞお楽しみに!!

(学芸普及課 課長 榎村寛之)

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