第81話 史料の読み方
斎宮に関係する文献資料は、そこそこ数があるとはいえ、『延喜斎宮式』という大口を除くと、割合に散発的なものが多くなります。そのため、斎宮研究のためには、一点一点の史料をじっくりと読んでいく必要があるのです。
例えばこういう具合、という実例を一つ紹介いたしましょう。
現在、宮内庁の書陵部(つまり古文書の管理・研究と陵墓の管理をしている部局)に「壬生官務家文書(みぶかんむけもんじょ)」とよばれる一群の文書があります。名前だけを一見すると、新撰組に関わった貴族の家の記録のよう見えますが、この中にはたくさんの公文書が入っています。壬生家は、正式な姓を小槻宿禰(おづきのすくね)といい、藤原朝臣(ふじわらのあそん)や源朝臣がほとんどの平安時代以降の貴族社会では、実はそれだけで一風変わった家なのだな、とわかるようになっていました。この家は、「官務家」の名の通り、平安時代末期以来、太政官の官務を務めてきたのです。
太政官は、左右大臣と大納言、中納言、参議らによって構成され、政策決定を行う最も重要な役所ですが、その政策を文章化し、各省に伝達し、実行に移させるために、弁官局という専門機関が置かれていました。この弁官局の中で、さらに実務を行うのが大史・少史で、それぞれ左・右二人がおり、壬生家はこの「左大史」に代々任命されてきたのです。つまりこれが「官務」なわけです。
ところが朝廷の政治的な権力が次第に失われるにつれ、こうした行政事務は形式化していきます。そして鎌倉時代の嘉禄二年(1226)に、公文書を保管しておく官文殿という建物が焼失して以降、朝廷は文書保管さえ自分では行わなくなります。代わってこの役を請け負ったのが、行政実務全般を行っていた壬生家だったのです。つまり、これ以降壬生家は、朝廷の文書保管庫の役割を果たすようになり、その文庫には、古代以来近世に至る公文書が大量に保管されているのです。
さて、その中に、こんな文書があります。
ゝ依請
〔紙面捺斎宮之印(方二寸)八町〕
齋宮寮解 申請 官裁事
請被任式例渡送御馬壹疋斃亡替状
右謹検式文。御馬斃亡之時。可被替渡之由
明也。而件御馬二疋之内。一疋鹿毛。従左馬寮被
渡送也 爰令撫飼之間。以去年十一月十四日
斃亡已畢者。任先例可被渡送之状如件。以解。
天喜二年四月十六日 大属出雲永重※
頭 橘朝臣兼懐※ 大允伴
助 文 大中臣重時※
權助紀正重※
天喜二年は1054年、斎王は後冷泉朝の敬子女王でした。
この文書の最初の ゝ依請は、文書整理した時に付けられたチェックマークと壬生家での整理用の題名です。一行目には、斎宮寮から、解という上申文書の書式で、「官」の裁可を申請する旨の表題が書かれています。では、官とは何でしょうか。律令国家には神まつりを行う「神祇官」と先に述べた「太政官」の二つの官があります。伊勢神宮に関係する機関の斎宮は、神祇官が上位の機関と思われがちですが、この文書で見る限り、壬生家に保存されていることから見て、太政官に宛てたものと見るのが妥当でしょう。
この文書には「斎宮之印」という文面の印が八箇所捺されています。斎宮寮の出した文書ですから、「斎宮寮印」とあってもよさそうなものですが、実は、理由があります。正倉院に残っている奈良時代の文書の印を見ると「民部之印」「宮内之印」「左京之印」と、民部省、宮内省、左京職など中央の役所の公印は「○○之印」、つまり「省・職・寮・司」などの機関名は記さないのが定式のようなのです。それに対して地方官では「○○国印」「○○郡印」など、機関名まできっちり入れています。この書き方は、斎宮が中央官庁と同等の扱いを受けていたことを示すものです。
さて、この本文では、まず「『式文』をチェックすると、『御馬』が死んだ時は、替わりが渡されることになっているのは明らかです。」としています。ここでいう「式文」は『延喜斎宮式』に「凡そ御馬二疋、女嬬の乗馬六疋は、みな左右馬寮の馬を以て充てよ。もし死失あらば請いて替えよ」とある条文に対応しており、『延喜式』の条文を根拠に申請していることがわかります。
「御馬」とは、斎王用の乗馬のことです。続きの文を読むと、御馬二疋のうち、一疋は鹿毛で、左馬寮から送られて飼われていたが、去年十一月に死んだ、とあります。斎王の馬は『延喜式』でも二疋になっており、その規定が守られていたことがわかります。しかし、十一月に死んだのに四月になってやっと申請というのは、いささか悠長な話です。もともと斎王が馬に乗ることはほとんど考えられず、実用ではなかったので、ずるずると先送りにされていたのかもしれません。だとすれば、斎宮の事務の形式化をうかがう史料にもなります。なお、この馬が「鹿毛」と報告されているのは、馬のデータが左馬寮に保管されており、照合できたからだと考えられます。
さてこの文書では、年月日の下に「大属出雲永重」の署名があります。大属は斎宮寮で下から二番目の位で、この中では一番地位が低いのです。この署名は太字のやや大きな文字にして、※マークが付いています。※マークは、人名の中で、文書全体の文字とは異筆なものに付けたものです。この時代の公文書は、決裁前に順次回覧する時、本人が署名をしていくのがルールでした。つまり署名のある人はこの書類を見た人、ということなのです。そして文書の字は出雲永重の筆跡ではありません。つまり斎宮では大属より低い立場の人がこの文書を起草していたことがうかがえるのです。
さて、ここで署名している斎宮の官人については、あと二つほど面白い問題があります。一つは斎宮頭の橘兼懐です。この人物、じつは『斎王群行』の映像で、鈴鹿頓宮にて何の用意もしていなかった伊勢国司と同一人物なのです。巡りめぐって斎宮に来る、よくよく縁の深い人物のようですが、面白いのは、この兼懐は、『春記』の著者、藤原資房や祖父の実資ら「小野宮家」の家人で、伊勢守になったのはそのコネによる所が大きいようだということです。そして、彼は、準備できなかったのは、先触れとして通過していった前使判官頼兼という者が横暴だったからだ、といいわけしているのですが、この頼兼は、1030年代から40年代にかけてやはり斎宮頭を勤め、私欲を貪ったとして告発された源頼兼と同一人で、やはり小野宮家と私的な主従関係を持っていたらしいのです。
このように、斎宮頭の補任から、11世紀の斎宮を巡る小野宮家人脈、というものが何だか窺えそうなのです。
最後に、欄外のような位置に、大中臣重時という名が見られることに注意をしておきたいと思います。11世紀後半になると、斎宮助は太神宮司を掌握する大中臣氏から派遣されることが多いのですが、この時は、助として「文」つまり文屋某、そして権助として紀正重がおり、重時の地位は明確ではありません。書かれた場所は、大允の伴某より低い地位の者が署名する所です、しかし、こうした公文書に無任所の人物が署名すること自体が異例なことであり、この時期の斎宮における神宮勢力の伸展を物語っているようです。
このように、一点の文書には、実に多くの情報が詰まっており、研究の進展によって、次々に新しい情報が掘り出されることもあるのです。
だから文書研究は止められないのです。
(学芸普及課 課長 榎村寛之)