第79話 赤い器と白い器
斎宮跡は珍しい遺跡です。そりゃあ斎宮のような施設の遺跡は他にはありませんから、珍しいのは当然なのですが、特に珍しいのは、660年間にわたって、その性格が変わらなかった遺跡だ、ということです。そのため、例えば660年間にわたる「斎宮で使われた食器」なんてものが当然あるわけなのですね。
660年もあれば、食器などは劇的に変わる、と思いがちですが、実際には意外に変化しないものです。例えば今から400年前の江戸時代初期の食器と、今の和風の食事の食器の形や構成を比べてみると、お椀、お箸、お皿、お茶椀、湯飲み、丼など、ほとんど変わってはいないのです。
同じように、奈良時代から南北朝時代まで、というと長いのですが、根本的に食器の構成が変わったわけではありません。ご飯とおかずと酒のような飲み物、という食生活が大きく変わっていないからですね。考古学的な言い方では、杯、皿、椀、高杯、あとは容器の壷、甕、瓶、それが土器か陶器か磁器か漆器か、という所でしょう。
ところがここに一つ例外があります。斎宮では、平安時代中ごろに大きな遺物の変化があるのです。それは、土師器の色です。
奈良時代頃から斎宮では、赤く発色させた杯、皿、椀などが使われるようになります。素焼きの土器は白っぽくなるのですが、わざと赤く発色させているのです。それらは、丁寧な仕上げの見るからにきれいな土器で、ひも状に伸ばした粘土を巻き上げて形をつくり、ヘラで削ったり、磨いたりして整形するのですが金属の椀でも意識しているような滑らかな質感で、轆轤(回転台)も使っていないのにほとんどひずみが無い、というものです。こうした土器は、奈良の都で使われていた土器の影響を受けたものと考えられています。
奈良時代から平安時代に変わる頃から、赤い土師器は次第に簡略化していきます。それでも赤に発色させることには強いこだわりがあったようです。九世紀の中頃から、斎宮の土師器はものすごく量が増え、成形もかなりルーズになるのですが、それでもやはり、斎宮で使われる土器は赤いのです。この頃の内院で使った土器が捨てられた土器溜め発掘すると、造りの粗い赤い土器がいやというほど見つかります。
ところが、10世紀中ごろになると、こうした赤い土器が、突然、といっていいほど劇的に姿を消します。そして現れてくるのが「白い土器」です。これ以降、斎宮では、手づくねと轆轤引きでつくられた、白い土師器がもっぱら使われるようになります。この二つを比べると、轆轤引きの方、通称「ロクロ土師器」の方が、バランスや仕上げなどは明らかによいものです。ところがロクロ土師器は平安時代後期になると次第に姿を消していき、手づくねだけになっていきます。ロクロ製品は、斎宮ではついに主流になれなかったようです。
なぜ土師器の色が劇的に変わったのかはよくわかりません。ただ、当時の平安京でもこのころから「白い土師器」は普通に使われるようになっています。また、ふちの付いた「コースター」のような形の変わった器形の皿などが使われるようになり、やはり斎宮でも見られます。つまりはここでも都の好みが反映されていたようなのです。その当時の平安京では、土師器について、樟葉(大阪府枚方市)の土器など、特定の生産地に固執するような記録がしばしば見られるようになります。土師器とは、本来誰でもどこでも作れる野焼きの土器であるはずなのに、その日常の食器についての好みが変化しているらしいのです。『枕草子』でも、素焼きの土器である「かわらけ」は「清げなるもの」とされており、このころの平安時代人には、具体的にはよくわからないのですが、土師器についての強いこだわりがあったようです。
一昨年の発掘調査で、斎宮の寮司、つまり斎宮寮の事務施設があったのではないか、と考えられている区画で、10世紀後半から11世紀前半頃の土器溜めがみつかりました。その遺物は、見事なまでに「白い土師器」で、斎宮の平安時代後期の土器の非常にいいサンプルとなりました。
今、斎宮歴史博物館のエントランスホールでは速報展「斎宮発掘最前線」を開催し、この土器溜め出土の「白い土師器」を集中的に展示しています。「ものからわかる斎宮」の展示室では、平安時代初期以前の展示が主流になるため、白い土師器はほとんど出ていません。そのため、展示室を見て速報展を見ると、平安時代人の好みの劇的な変化がおわかりいただけるようになっています。
展覧会期間は7月17日(月・祝)までです。最終日は月曜日ですが、海の日で開館しています。皆様のお越しを心よりお待ちいたしております。
(学芸普及課 課長 榎村寛之)