第75話  獅子と狛犬

 ちょっと旬はずれではありますが、戌年にちなんでわんわんの話題など。
博物館には一頭、犬さんがいます。どこかわかりますか。実は展示室Ⅰの「御帳台(御帳、斗帳などとも)」の前にいる狛犬です。
 あれ、狛犬なら一対で二頭じゃないの、というあなた。なかなかものをご存じですねぇ。でも、少しちがうのです。
 じつは帳台の前に鎮子として動物の木彫を置くという記述は、十二世紀前半に編さんされた『類聚雑要抄』に見られます。ところがその絵では、向かって右を獅子、左にいて角があるのを狛犬としているのです。
 ところが『類聚雑要抄』の本文では、
 獅子形を立てる時は、帳前の南方の帷の端に、向かい合わせに立てる。左は獅子、右は胡摩犬である。
 と、左右逆転しているのです。
 これは、帳の中に入っている人を基準に左右を決めているからです。
帳の前が南方とする書き方でもわかりますように、帳台とは南を正方位として置かれるものです、南に向かうということは、その主人は極めて地位が高い、ということになりますから、主人基準で左右が決まるのです。ちょうど、平安京が北に向かって右側が左京、左側が右京となるのと同じことです。
 ところで、左右大臣の上下をご存じでしょうか。左大臣の方が少し偉いのです。この理屈でいえば、獅子と狛犬では獅子が少し偉いことになります。実際、獅子と犬では、問題外に獅子が強いでしょうから、獅子が偉いんでしょうねぇ。
 ところで、筆者の友人Dさん(仮称)は、ある時ふと思い立って、京都国立博物館で開催している「神像と獅子・狛犬」展に赴き、あることを調査しました。
 あれはオスなのかメスなのか。
 考えてみれば、獅子がライオンであれば、いわゆる唐獅子には必ずたてがみがついていますから、みんなオスのはずです。でも、例えば狩野派の絵の獅子には、夫婦一対らしいのが、両方ともたてがみ付きで描かれているものもあります。まあ日本人の絵師や彫刻師が、ライオンの雌雄の違いなどは知らなかったでしょうから、たてがみのあるなしは、獅子の性差表現にはならないわけです。
 そこでDさんは、展示されている平安・鎌倉期の木彫獅子・狛犬7対の雌雄表現を確認したのです。身長170センチに近い颯爽とした若い女性が、木彫の腹部をのぞき込んでいる姿は、想像するとなかなか奇妙なものがありますが、人目を気にしなかった甲斐がありました。
意外な結果が出たのです。
 あれは雌雄の一対でした。
さて、では、獅子がオスで狛犬がメスか、と思ったあなた、ことはそう簡単ではないのです。
その結果は、
 獅子がメスで狛犬がオス  3体 
 獅子がオスで狛犬がメス  4体
と、全くバラバラだったのです。
 つまり、性差は表現するが、どちらがどちらかには特にこだわっていなかったようなのです。平安時代の宮廷社会が、獅子と狛犬の雌雄の役割を必ずしも固定しなかったのは、当時の家族に、未だ圧倒的な社会的な性差、すなわちジェンダーが定着していなかったことと関係があるかもしれません。平安時代後期から女性の地位は低落していくと言われています。例えばその頃、夫方で暮らしていたある貴族の邸では、夫と妻の竈を並べ、向かって右が夫のもの、としていました。つまり夫の方が格上になっているのです。しかし、夫方に住んでいるのだから夫中心は当然で、むしろ面白いのは、それでも竈を別々にしていることでしょう。ここでは、同居はしているものの、生活権まで夫には渡していない妻のありかたが見られます。この時期の貴族社会では女性は荘園領主にもなれたし、夫とは別に財産を持て(夫婦別産)、後世の武家社会などよりずっと自立性が高かったのです。少なくとも一対の獅子と狛犬には、種類の上下差はあっても、雌雄の上下差はなかったようなのです。
 一方、それ以上に面白いのは、獅子と狛犬が「一対」とされていることです。獅子と狛犬はつまりライオンとイヌですから、自然の状態では大きさが格段に違います。本来は対になるはずがない。現に中国や、その文化が直接入ってきた沖縄では、みんな獅子です。いったいいつから対になったのか。

 その意味で面白いのは『延喜式』に見られる斗帳についての記述です。「斎宮式」では斗帳の記述が三カ所も出てきます、しかし、獅子と狛犬の記述は全くなく、重しとしては「鎮子十二枚」とあるのみです。そして斗帳の作り方が書いてある「内匠寮式」では、「鎮子」は、銅と錫と鉄の合金らしく、獅子や狛犬ではないようです。では、天皇の場合はどうか、内匠寮式には天皇の斗帳についても詳しい記述があります。しかしそこにも獅子・狛犬はでてこない、つまり延喜式の書かれた10世紀前半には、獅子・狛犬と斗帳はまだセットではなかった可能性が高いのです。
 ではセットになったのはいつ頃か、13世紀前半に順徳院の著した『禁秘抄』には、清涼殿、紫宸殿の斗帳の前に獅子と狛犬を置くことが記されています。清涼伝の斗帳は東向きで床は座敷、紫宸殿のは南向きで椅子形なので、獅子や狛犬は、それほど大きな制約もなく置かれていたようです。鎮子としての獅子・狛犬が定着した時代の雰囲気がうかがえます。
 いっぽうこれと比較して面白いのは『枕草子』です。枕草子は写本によって段数や内容、構成が異なる困った本ですが、陽明文庫本を底本にした新日本古典文学大系本の第205段(250ページ)には、今は絶えた五月五日の競馬を見に、天皇が内裏から武徳殿に行幸をする華やかな様が、昔語りとして記されています。その帰還の時、天皇の輿の前を「獅子・狛犬」が舞うというのです。この舞は、平安末期の舞楽書「教訓抄」によると「蘇芳菲」と呼ばれる唐楽で、その舞人の姿は獅子で、頭は犬の頭のように、口が細く面長だといいます。そして子供が2人、犬のような姿で従うのだそうです。古楽とも言われる古い舞で、9世紀前半の弘仁年間に天皇の前で盛んに行われたともいいます。
 この舞では、獅子と狛犬は一対ではないのです。
 一方、同じ『枕草子』でも、第259段(290ページ)には、清少納言が、法興院の積善寺の一切経供養に参加する定子中宮のお供で、一条天皇の母、藤原詮子の二条宮に行き、調度品の獅子・狛犬を見るというくだりがあります。この獅子と狛犬はおそらく斗帳の重しでしょう。『宇津保物語』にも鎮子の獅子と狛犬は出てくるので、このころにすでにあったことは疑いありません。ところが同じ段の中でも、天皇の御輿の前で、獅子・狛犬が踊り舞うという記述があるのです。天皇の輿の前ですから、これも「蘇芳菲」の可能性が高い。つまり清少納言は一日のうちに「カップルのような獅子と狛犬」と「親子のような獅子と複数の狛犬」を見ており、その両方とも「獅子、狛犬」と書いているのです。
「獅子、狛犬」と書くとき、彼女の頭の中には、この二つのイメージが自然に共存していた、つまり彼女の生きた時代の貴族にそっては、獅子・狛犬=一対という常識は、まだ定着していなかったと考えられるのです。
 とすれば、獅子・狛犬を一対と見る意識は、10世紀半ば、『延喜式』以後、『枕草子』までの間に発生し、平安時代後期の間に定着したものと見られます。そしてそのころから、木彫の獅子・狛犬の遺存例が増えてくるのです。
 つまり、狛犬は、もともと獅子のお供だったのが、獅子を知らない平安貴族の意識の中で獅子と一対になり、ついには獅子を追い出して、そのイメージを独占するようになったと考えられるのではないでしょうか。

(学芸普及グループ リーダー 榎村寛之)

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