第73話 博物館に来る質問3 伊勢神宮はどこに?
博物館に来る質問シリーズ?第三回としてこういう問題を取り上げました。
「伊勢神宮はもともと今のところになかった、というのは本当でしょうか。」こういう質問をされるのはかなりの古代史通の方です。
まぁ、伊勢に天照大神が祀られた経緯については、『日本書紀』では垂仁天皇の時代に倭姫命が諸国を巡って結局伊勢に置いたのだ、としているのですから、もともとなかった、といえばなかったのですが、この伝説的な記事を別にすると、学界でも意見が分かれているのです。
要は、8世紀の初頭まで、伊勢神宮は多気にあったのではないか、ということです。
この仮説の基になっているのは『続日本紀』の文武天皇2年(698)11月29日条にある「多気大神宮を度会郡に遷す」という記事なのです。この多気大神宮とは何なのか。これこそ内宮だとする説があるのです。
もともと伊勢神宮には多気郡・度会郡の二郡が神郡とされていました。ところが内宮も外宮も所在は度会郡にあります。伊勢神宮最古のまとまった文献である『皇太神宮儀式帳』には、こういう経緯が記されています。
孝徳天皇の時代に、有爾鳥墓村に神だち(まだれに寺、という字)を造り、雑神政を行ったが、同じ天皇が天下に評(郡)を立てた時、十郷を分けて度会の山田原に屯倉を立て、別の十郷を分けて竹村に屯倉を立てた。同じ天皇の時に度会の山田の原に神だちを移し、名を御厨と号し、太神宮司と号した。天智天皇の時代に多気郡の四郷を分けて飯野高村に屯倉を造り、公郡とした。
また『神宮雑例集』という、おそらく平安時代中期に編纂されたか、とされる本には、「孝徳天皇の時代、飯野多気度相はまとめて一郡で、その時に多気の有爾鳥墓に郡を立てた。時に己酉年で、始めて度相郡となった」とあります。
このように、それぞれ相違があるものの、たしかに南伊勢地域に郡制が敷かれていく時、その事務的な中心はまず多気郡の有爾鳥墓に置かれた、というのは共通しています。さらに、全国にある神郡の中で、伊勢神宮だけが二郡を持っていることから、多気郡が内宮、度会郡が外宮の郡だった、という考え方もまた可能なのです。こうした所から、多気大神宮とは、多気の太神宮司を付属させ、多気郡を領地としていた、もともとの皇太神宮ではないか、という説があるのです。
これに対し、「多気太神宮」は転写のあやまりで、もともとは「太神宮司」や「太神宮寺」だったとする説、多気太神宮司こそ外宮である、とする説など、実はこの史料の解釈は様々で、解決を見ていないのです。
で、筆者はどう思うか。
私が注意したいのは、『万葉集』に見られる柿本人麻呂作の高市皇子への挽歌です。この歌に、「渡會の 斎の宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を」という表現があるのです。ここにいう「斎の宮」は、壬申の乱の時に神風を吹かせたとしているので、斎宮ではなく伊勢神宮そのものを指していたと考えられます。そして高市皇子が亡くなったのは696年ですから、この時に「斎の宮」は渡會にあった、ということになるのです。とすれば、698年に多気から度会に移った、とするのはどうも不自然なのです。
また、今の内宮境内にある荒祭宮の周囲では、古墳時代後期頃とみられる考古遺物が地表面で採集されており、なんらかの祭祀が行われていたと考えられています。今の内宮の立地は、神路河と御裳衣川が合流し、谷から平地に出てくる所を選んでいるわけで、まさに自然界と人間界の境界線上といえるところです。この立地は地形や環境に規制されたものであり、少なくとも、今の内宮は、祭祀を行うにふさわしい環境を選んで置かれていることになります。だとすると、仮に、多気郡から「多気太神宮」を度会郡に移す前にも、それに近い環境を選んでいたと見るのが自然ではないか、と思うのです。伊勢神宮は二十年ごとに建て替えられる建築を伴い、広い前庭と幾重にも囲まれた塀を持っています。こうした特徴は、神社、特に古代の神社としては非常に特殊なもので、いわば宮殿的な構造になっています。ところがその立地はやはり、神を祭る環境を選んでいるのですね。つまり、伝統的な神を祀る環境に、当時の最新モードの神祀り施設を建てた、ということになるのです。この選択は、最新の形で祀りたいけど、祀る場所はここじゃなきゃだめ、という当時の神祀り意識や神の観念による精神的規制の産物ではないでしょうか。
ところが、今の斎宮や有爾の周辺には渓谷と平地の境界のような神を祀る環境はなく、櫛田川をかなりさかのぼらないと求めにくいのです。そのため、原・内宮は櫛田川のずっと川上、兄国・弟国などと言われるあたりだとする説もあります。しかしだとすると、こんどは斎宮を今の所に置く意味がなくなってしまうのです。
このように、多気太神宮を、多気郡にあった原・内宮だと言い切るにはまだ論証が足りないと筆者は考えています。もっとも、じゃ、何なのか、というのはやはり大きな問題なのですが。
(学芸普及グループ リーダー 榎村寛之)