第72話  幻の地名の謎が解けた

 秋の展覧会「斎宮の宿」における大きな収穫のひとつは、江戸時代後期にしばしば、斎宮村から山田(現在の伊勢市)や松坂(現在の松阪市)の代官所充てに村の現状を報告する文書が提出され、そこに「旧跡」という項目が設けられていたのに気づいたことでした。この項目には説明なしでいくつかの地名が記され、それらはほぼ同一で、しかも現在斎宮関係地名と推定されている所です。つまり江戸時代には、斎宮跡についてのコンセンサスが地元にあったという事実が確認できるのです。
 しかしその中でいくつか、なぜここが旧跡なのかわからない、という地名がありました。「盃」もその一つです。旧・斎宮村の東の端あたり、推定される斎宮の方格地割(八世紀末期に造成されたと見られる碁盤目形の区画)の東の端よりやや東に、盃地蔵という小さな地蔵堂があり、以前から気にはなっていたのですが、その名が、「旧跡」の中に見られたのです。こうした文書での斎宮村の旧跡の書き上げは大体西から東の順で、盃は終わりの方に書かれていますので、斎宮村でも東の方、現・伊勢市寄り、つまり今の盃にほぼ間違いありません。そこで、その地域の九十代のお年寄りをご紹介いただき、聞き取りも行ったのですが、盃地蔵が火除けの霊験があること、もとは参宮街道沿いのT字路にあり、道の拡幅で移されることになって、その少し南にあったもう一つの地蔵の側に移したこと、などがわかったものの、なぜ盃というのか、については全くわかりませんでした。
 しかし、大変気になるのです。盃といえば「別れの水盃」がまず想定されますし、地蔵といえば、辻とか村はずれとかに置かれるものと決まっています。つまり盃のあたりは斎宮村の「境界領域」だった可能性が高いのです。あるいはそれは、斎宮のあった時代にさかのぼるものかも知れません。事実、盃の150mほど西に「絵馬の辻」と呼ばれる辻があり、この辻の南北道路は、古代の方格地割の東端の道で、その道沿いに流れるエンマ川(絵馬川)は、方格地割の道路側溝の名残だったことが分かっています。このように盃は斎宮と関係ありげなのですが、証拠がなければそれまでです。そして展覧会では、忘れられた旧跡地名として取り上げました。
 ところが、展覧会期間中に、驚くべき発見があったのです。展示期間中に、地元明和町の中央公民館の斎宮についての講座を開催し、展覧会を見て、旧参宮街道を歩いたのですが、その時に参加されたあるご婦人が「私ら子どもの頃、お祖母さんに、斎王さんは木戸口の世古から盃の世古を通って神宮にお詣りされたんや、と聞いた」とおっしゃったのです。この伝承には驚きました。「世古」とは伊勢地域の言葉で、「迫」と同じく、細い道を指します。そして「盃の世古」とは、盃のT字路の、参宮街道から分岐する南行きの道、つまり、今は盃地蔵ともう一つの地蔵がならんで立っている道のことなのです。この先は圃場整備で大きく景観が変わっているのですが、どうやらこの道は有爾中(うになか)に続いていたようです。これがなぜ重要かというと、こうした理由があるのです。

 有爾というのは、平安時代初期に編纂された『皇太神宮儀式帳』に、伊勢神宮の神郡を支配する行政施設が最初に置かれたとされ、周囲からは六世紀から八世紀頃の土師器といわれる素焼きの土器を製作した窯跡が大量に見つかるなど、古代多気郡の重要拠点だったところで、有爾中はその中心という意味です。そして斎宮から東の地域は、今の参宮街道が出来てからも、水路が縦横に走る低湿地で、古代の官道を通すにはふさわしくないと推測されており、斎宮で確認されている奈良時代の古道は、南の有爾へと抜けて東に向かい、伊勢神宮外宮と宮川沿いに向かい合う位の位置にあった離宮に至ったのではないか、と考える説が説得的なのです。しかし、この仮説には一つの問題がありました。それは、遅くとも江戸時代の絵図には、斎宮と有爾中を結ぶ道路は、現在の竹神社から真南に出ているようになっていることなのです。現在の竹神社は、東西二区画を占めていた平安初期の斎宮内院の西側区画(牛葉東地区、東から四列目、北から三列目)の一角であったと発掘調査から判明しています。つまりこの道路が平安時代からあったとすれば、斎宮内院から有爾へと南に走る道が出ていたことになります。ところが『延喜式』では斎王は伊勢参宮をするとき、斎宮の東の境界で禊祓を行うことになっており、その場所は現在のエンマ川と奈良時代古道の交点あたりと推測されているのです。また、伊勢神宮に派遣された公卿勅使も、斎宮の南側か北側の道路を通ったとしており、斎宮周辺の交通体系は、東西主体だったことがわかります。しかし、古代の官道が今の斎宮と有爾中に向かう道だとすると、斎宮の東の端を通っていないことになります。『延喜式』などの記載を整合的に理解するためには、官道は斎宮より少し東で南に折れて有爾に行ったとしか考えられないのです。ならば、斎宮跡より少し東で南進する「盃の世古」こそ、古代官道の名残だった可能性が出てくるのです。
 そして、この伝承の面白い所は、ご婦人の話に「木戸口の世古」が出てきたことです。前述のように、斎宮の内院は東西二区画あり、この木戸口の世古と呼ばれる小道は、東側の区画(鍛冶山西地区、東から三列目、北から三列目)の中央部を走る道なのです。
つまり、この伝説を読み替えると、斎王は、内院の正門を出て、区画内道路を東進し、東端で境界祭祀を行い、間もなく南に折れて、有爾を経由して伊勢神宮に向かった、ということになるのです。かなり信憑性のある話ではありませんか。
 これが史実かどうかについてはまだまだ検証が必要です。しかし、盃が斎宮関係の旧跡地名とされていた理由はまずこの伝承で決まりでしょう。そして面白いのは、盃の地蔵のそばにある地蔵が割合に古そうだということです。これは「盃の世古」がそれなりに古い道だったことの傍証となるものでしょう。
 どんな郷土資料にも出てこず、その意味が失われてしまったと見られていた地名が、意外な形で確認され、そこにはずいぶん面白そうな由来がありました。「斎宮の宿」展がなければ、こうした情報は埋もれたままだったでしょう。思いもかけない所から大きな発見をしたという話でした。

(学芸普及グループ リーダー 榎村寛之)

ページのトップへ戻る