第71話  「野々宮」の地名 「斎宮の宿」展によせて

 斎宮歴史博物館の秋の展示は、斎宮跡という遺跡を新しい視点で見直す試みでした。いうまでもなく斎宮は、施設としては鎌倉時代後半、1270年代には退転し、その後復活することなく、1970年の発掘調査開始に至りました。しかし、この地域には、これもいうまでもなく、その間の歴史がありました。そして重要なことは、この地域で「斎宮」という名が、ずっと伝承されてきたことなのです。
 この国には地名を大事にする伝統がたしかにあった、と私は思います。数多くの古代の遺跡、曰く平城京、多賀城、大宰府、各地の国府、国分寺、郡衙などの官司遺跡の発掘調査は、その地名と、地名にまつわる言い伝えを大きな手がかりとすることが少なくありません。そして斎宮でも同じことが行われてきたのです。
 室町時代の文献には「斎宮絵馬の辻」という地名が見られ、斎宮廃絶後も、地名としての斎宮は残っていたことがわかります。しかし安土桃山時代の天正16年(1588)に、参宮街道が今の位置に付け替えられると、織田氏によって滅ぼされた北畠氏の旧臣とされる人々が土着して、その街道沿いに新しい村を作りはじめました。これが今に残る斎宮の町並みのはじまりとなります。つまりこの時に、斎宮の景観は大きく変わってしまったのでしょう。しかしそれでも、新しい村の人々は、斎宮村、竹川村と、斎宮関係地名を自分たちの村につけたのです。
 こうして幕を開けた斎宮の近世でも、斎宮跡の伝承地名は、各所に受け継がれていました。伊勢神宮領となった斎宮村から両宮の代官所に提出された数々の資料の中には、村の旧跡を書き上げた、十八世紀末から十九世紀初頭頃の書類が何点かあります。そこには、「西王森」「野々宮」「旧地の森(野々宮の別称)」「上薗」「下薗」「鈴池」「紅葉森」「黒木鳥居」「笛川橋」「有明池」「絵馬堂」などの地名が、ほとんど入れ替えの無く記されています。そしてそのほとんどが、斎宮関係地名、または斎宮関係の伝承を持つものなのです。つまり当時の斎宮村では、斎宮関連地名を旧跡として、対外的にもアピールしていこうという共通認識があった、と考えられるのです。
 ところがこうした地名の多くは次第に忘れられていきます。そこには近代化による生活環境の変化をはじめ色々な理由があるのですが、その一つに、幕末の伊勢神宮神官で国学者としても知られた御巫清直(みかんなぎきよなお)の『斎宮寮旧蹟考』の影響があるのではないかと思われます。幕末頃、尊王思想の高まりにより、津の藤堂藩は、斎王制度の復活を企図し、清直に調査を依頼します。その成果として、当時としては画期的な成果である『斎宮寮考證』やこの『旧蹟考』などが生まれたらしいのですが、その中で、清直は、斎宮に関する伝承地名は単なる土俗で、取るに足りないものが多いとしているのです。
 清直は、明治になっても斎宮関係の研究を進め、例えば十世紀に斎宮で亡くなった隆子女王の墓を、地名をもとに「再発見」し、皇族陵墓として国に認めさせています。現在に伝わる「隆子斎王の墓」は、治定当時の図面から見て、群集墳の一つであった可能性が高いものですが、清直の考証にはそれなりの説得力があり、地元への影響力も大きかったものと思われます。

 例えば、江戸時代の斎宮街道沿いには「野々宮」という社がありました。もちろん少し斎王制度を知っている人間なら、斎宮に野宮があるのはおかしいことに気づきますし、何かの間違いだろうと思うことでしょう。古典研究者である清直も当然その一人で、これは『源氏物語』や、西行法師が斎宮を訪れた時の『山家集』の歌の詞書などによる誤った言い伝えが定着したもので、何の根拠もなく、斎宮の旧跡は斎王の森周辺だ、としたのです。
 そして明治後期に行われた神社の統廃合で、斎宮周辺の神社はすべて「野宮」に集められ、最終的には「竹神社」という名の、立派な建物を持つ「式内社」になりました。そして野宮が斎宮の中心地だという意識は次第に薄れていき、斎宮の旧跡は斎王の森、という認識が近代には定着しました。
 おそらく清直の推理は正しいと思われます、「野々宮」の名がおかしい、という所までは。
 ところが、どうも清直は、この森に「旧地の森」という別称があり、村の共同管理地として、神宮代官所の許可を得て伐木の利用などが許されていたことを見落としたか無視しているのです。なるほど野々宮はおかしいかもしれないのですが、ここが斎宮の中心地だったという伝承までむげに捨てるのはどうなのでしょうか。
 事実、斎宮跡の発掘調査の進展により、斎王の森周辺では、斎宮の中心的な建物は発見できず、現在では、斎宮の中心部とは考えられなくなっています。逆に竹神社の背後では、この区画を取り巻く8世紀末期の塀が確認され、12世紀の土器にひらがなを書いたものが大量に発見されるなど、平安時代を通じて斎宮の内院として使われていたことがほぼ明らかになってきたのです。つまり「旧地の森」という伝承は正しかったのです。
 このことは、研究者の推理より、土俗とされた近世伝承の中に、真実の一片が遺されていたことを示しています。あるいは「野々宮」も、嵯峨の野宮を意識したものではなく、共同管理の「野」となった宮、という意味だったのかもしれません。
 また、ここに挙げた地名のうち、紅葉森、黒木鳥居、絵馬堂などは史跡の東端―それは斎宮の方格地割の東端の道路沿いでもあります―にほぼ南北一列に並ぶものです。ここでも伝承地名が発掘調査の成果と結びついてくるのです。
 ところで、これらの地名のうち、有明池、笛川橋などは、史跡の範囲より東に分布しているのです。その周辺は史跡範囲内に比べてやや低地になるのですが、あるいはこのあたりにも、斎宮関連遺跡が眠っているのかもしれません。
 ともかく地名はおろそかにできないものなのです。

(学芸普及グループ リーダー 榎村寛之)

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