第70話 博物館に来る質問 その2 斎宮はなぜここにあるの?
博物館で展示できない質問その2として、「斎宮はなぜここにあるの」を取り上げます。といっても、あくまで結論は前回と同じく真っ先に。
「わかりません」なのですが・・・。
斎宮跡は伊勢神宮の外宮から直線距離で10キロメートルほど離れています。内宮となると、さらに3キロメートルほど離れているので、結構遠いです。片道歩いて大人の足で3時間弱位はかかるようです。そして、博物館に来られたり、見学の問い合わせをされるお客様や旅行業者の方々からも、しばしば「伊勢神宮の隣じゃないんですね。」「すぐだと思ってたら意外に遠いんですね。」とのご指摘をいただきます。
それも当然のことで、誰だって伊勢神宮の付属施設なら、伊勢神宮の側にあるものと思いますよね。付属施設なら・・・。
つまり斎宮跡が伊勢神宮から離れた所にあることは、斎宮が伊勢神宮の付属施設なのかどうか、という問題と関わってくるのです。
斎王の「勤め先」は伊勢神宮だから、勤め先が遠いのは不便じゃないか。という疑問は当然でてくるものです。そして平安時代にも、そうした疑問を感じた人がいたらしい。
天長元年(824)9月10日に「多気の斎宮が、大神宮と離れて遠く、不便なので、度会にある離宮の地を卜い定めて、常の斎宮とする。」という詔が出されます。多気の斎宮、つまり今の斎宮跡は遠くて不便、と思われていたのですね、やはり。
この時に斎宮が移転した離宮とは、今の外宮の西を流れる宮川の西側、つまり外宮の川向こうという位置関係で、割合に近い所ではあります。
しかしそれでも、この移転にはやはりおかしい所があります。何しろそれから15年後に承和6年(839)に、この度会の斎宮は官舎百余棟を焼く火事を出し、その後ふたたび多気斎宮を卜定し、戻ってしまうのですから。
井上友希さんという研究者は「八・九世紀における斎宮寮の動向」(『続日本紀研究』333号 2001年)という論文の中で、その問題点を、
・なぜ天長元年になって移転したのか、その契機が判然としていない。
・方格地割という大規模な区画整理までした土地を捨てるほど深刻な問題があったのか。
・不便が理由なら、なぜ後に再び多気の斎宮に帰ったのかが説明できない。
と整理し、この移転を、伊勢国衙と一体化した斎宮寮が、伊勢神宮の事務を司り、その勢力を拡張しようとしていた大神宮司に圧力をかけるために行ったが、神宮側の抵抗運動にあって元に戻ったのだと結論づけています。
そしてこの後、斎宮は多気の地を動かず、斎宮跡は多気郡内にのこることになりました。つまり、伊勢神宮と斎宮の関係が安定していれば、斎宮は多気の地にあって何のさわりもなかったのです。
神に仕える皇女の宮が、その社と隣接していない、という例は、じつは他にも見られます。賀茂神社に仕えた斎王の居所、斎院の遺跡はよくわかっていませんが、少なくとも九世紀中期以降は「紫野」、つまり今の大徳寺の近くとされていました。そして紫野と下鴨神社は直線で3キロメートルほど離れていて、上賀茂神社となるとさらに、ということになるのです。つまり、平安時代には、斎王は伊勢・賀茂ともに仕えるべき神社の側にいる必要はなかったことになります。
そして賀茂斎院が、賀茂神社にとって不可欠な施設であると考える人はほとんどありますまい。賀茂神社には平安初期に賀茂斎院が置かれる以前からの歴史があり、鎌倉中期になくなってからも現代に至る長い歴史があるのですから。
つまり、紫野の斎院は、古代国家が賀茂祭に関与し、その格を上げるために置いた組織なのであり、法的にも経済的にも、賀茂神社の付属施設ではないのです。そして伊勢斎宮にも、ある程度同じことが言えるはずです。斎宮がなくなって伊勢神宮が立ち行かなくなる、ということはなかったのですから。
このように見てくると、斎王の居所は、本来、その仕える神社の隣にある必要はなかったことになります。
では、なぜ、多気の地に?という問題はそれでも残ります。
この点についても、いろいろな説があるのです。
中でも割合に広く知られているのは、
・紀ノ川の水源は高見峠で、櫛田川の水源も高見峠である。つまり紀ノ川河口から櫛田川河口までは、ほぼ東西の線で結ぶことができる。これは中央構造線のラインでもある。その西側、つまり和歌山側には、太陽神を祭り、奈良時代には国家的尊崇を集めていた「日前・国懸神社」がある。これに対応するのが、東の太陽神である伊勢側の伊勢神宮で、伊勢神宮はもともと櫛田川沿いに置かれ、斎宮もその傍らに置かれていた。ところが伊勢神宮は後に度会郡に移ってしまったので、斎宮だけが多気郡に残ることになった。
あるいは、少しだけ政治的動機をつけて、
・大和の勢力は、伊勢に進出してくる道筋として、高見峠~櫛田川のルートを選んだ。そのため、大和勢力の守護神は櫛田川の近くに祭られ、川に臨んで機を織り、神の訪れを待つ巫女の宮も櫛田川の辺に造られた。
などですが、いずれも、櫛田川・祓川水系で斎宮の意義を考えようとするものです。
この考え方の最大の問題点は、では、肝心の伊勢神宮が度会に行ったのに、なぜその時に斎宮は残ったのか、という説明ができないことです。なにしろ平安時代には一時期でも移動したのですから。そして、巫女が機を織るもので、そのための建物が川の近くに作られる、という「傾向」は民俗学の側では柳田国男以来言われているものなのですが、少なくとも律令制下の斎王には今のところ、機を織ることが主務だったことを裏付ける史料はありません。斎宮には機織りにかかる専門部局もないのです。そして斎宮跡で見つかっている遺跡も、今のところは7世紀末期をさかのぼりません。むしろ8世紀以降に顕著になるのです。
つまりは櫛田川水系に拘束されていた、という説は、必ずしも万能ではないのです。
では、そのほかにどういうことが考えられるか。
一つの仮説として、私は、斎王は、斎宮から伊勢神宮に至る行程を「旅する」ことに意義があったのではないか、と考えています。斎宮は、鈴鹿関と伊勢神宮を結ぶ官道に接する形で造られました。このような官道は律令体制の整備とともに全国に造られていったことがわかってきています。そして斎宮は、官道を意識して造られています。
そして櫛田川や、今の祓川、当時の竹川などは、8世紀頃には、斎宮の西側に広大な低湿地域を作っていたと考えられます。この湿地帯は、伊勢神宮の神郡とされた多気郡、度会郡の二郡と、隣接する飯高郡の境界となっていたと考えられます。
つまり斎宮は、官道が西の湿地帯から東の高燥台地に上がってきた所に造られた、逆に言えば、神宮領の中で官道を利用できる「一番西の端」に造られた、ということになるのです。
少なくとも「律令制下の斎宮」は、そこに意義があって造られたのじゃないか。
律令制下の伊勢神宮の論理は、『日本書紀』に記された、垂仁天皇の娘の倭姫命が大和を離れ、諸国を放浪した後、伊勢国に入り、五十鈴川の川上に伊勢神宮(内宮)を定めた、というものでした。これが「史実」であるかどうかはともかく、律令国家が認定した伊勢神宮成立の「事実」だったことは間違いない、つまり律令制下では伊勢神宮とは、そういうものだったのです。ならば伊勢神宮の「いま」も、『日本書紀』を反映したものでなければならないのではないか、つまり、倭姫命は、旅をして伊勢神宮を定める、という行為を繰り返す必要があるのではないか、このように考えますと、斎宮は「倭姫が都からやってくる」ことの疑似儀式をするために、できるだけ大和に近い所に置かれなければならなかった。しかしそれはそんなに古くからの話ではなく、倭姫命伝説の「決定版」を国家が作り、伊勢神宮の成立伝説として国家の正史に取り込んだ時期、具体的には、古くとも天武朝の大来皇女以降のことではなかったか、と思うのです。
こう考えると、7世紀後半以前の斎宮の遺跡が斎宮跡では見つからないことの説明には一応なります。
もちろんこの仮説にも明確な証拠はありません。しかし「こうした理由で斎宮を多気郡に置いたのだ」という説明がどこにもない以上、多くの仮説を出して、その蓋然性が高いものが残っていく、という人文科学の正攻法の手段で考えていくしかない。それはすぐに答えが出るような簡単なものではなく、とても迂遠な道のりなんだけど、それしか方法はないんじゃないかな、と考えています。
というわけで、皆さんも考えてみてください。なぜ斎宮はここを動かなかったのでしょう。
(学芸普及グループ リーダー 榎村寛之)