第69話 祓川展の魚のいろいろ ②名前と形にゃいろいろあって・・・
夏の展示で「祓川」を採り上げて、博物館らしくなく淡水魚を飼ったりしているため、いろいろと調べる機会が増えているのですが、これがなかなかに面白いのです。特に、前回もとりあげた寺島良安『和漢三才図会』に見る「河湖有鱗」、つまり淡水魚で、ウナギやナマズのようなヌルヌルしたのを除いたもの、の記述を見ていると、なかなかに面白いのです。というわけで、今回は、江戸時代前半の京の知識人が見た「淡水魚」についてのお話。
その前にお断りしておかなければならないのは、いみじくも良安が『和漢三才図会』と名付けたように、この本は中国で王祈という人が出した『三才図会』や、李時珍の『本草綱目』などの百科事典をもとに、蘭学的知識も加えながら作られていることです。そのため、魚に関しては、中国語で書かれた名前が、日本でいうどの魚にあたるか、という書き方をしているということです。
では本文を見ながら、今回展示している魚たちについて、面白い記述を拾っていきましょう。
まずは魚偏に「節」という魚。良安は「たびらこ」だとしています。前に見た通り、たびらこはタナゴの異名です。面白いのは、中国の文献では、櫛やもぐらが化して、たびらこになるとしていることで、流石に良安はこれを否定しています。ただし春夏の陽気を感じると、フナやたびらこは自然に池に生ずるとしているので、五十歩百歩なのですが。
次は魚偏に「蚤」。良安は「みごい」と読み、美鯉の字を充てます。「鯉に似ていて体は狭長、頭は鯉より長く、鱗は鯉より細かい」としているので、今のニゴイかと思われます。とすれば、ニゴイは鯉に似ているからニゴイというのではなく、美鯉が訛ったものということになります。
次は「黄○魚」(○は魚偏に「固」)です。良安は「わたご」と読ませています。ところが『日本国語大辞典』では「わたご」「わたこ」はわたかの別名だとしているのです。しかし良安は「波長魚」という魚をわたかとしているのです。「わたか」と「わたご」は別の魚と考えていたようです。わたごについては「五~七寸くらい、各地の池川に鮒と一緒にいるが、江州の湖中に最も多く、細鱗で白光色をしている」といい、「腸子」と書いています。対してわたかは「五・六寸から一尺、湖中にいて背が黒い」といい、「腸香」と書いています。ちなみに、現在言うワタカの情報を見ると、コイ科の魚で、琵琶湖固有種で体長30センチ程度、背が緑青色としており、これは「わたか」の特徴に対応しますが、「わたご」には合いません。そして面白いのは、良安は、「毛呂古」を黄○ 魚(○は魚偏に「固」)に似た細長い魚としていることです。「毛呂古」は今回展示している「タモロコ」「ホンモロコ」などのもろこですから、「わたご」は「もろこ」に似てもう少し太く、最大20センチ程度の魚で、分布域の広い物、となるでしょう。とすれば、たとえば、イシモロコとも言われ、モロコによく似た外観のモツゴかもしれません。ちなみに「ワタ」も「モツ」も「内蔵」の意味です。
次は「石○魚」(○は魚偏に「必」〈=この字は鱒のことだそうです〉)です。良安は「おいかわ」と読ませています。コイ科の魚です。良安によると、この魚は京都の大井川、つまり今の桂川に多いので「おおいかわの魚」から「おいかわ」になったといいます。ところが良安のいうことが正しいのか?と疑問を抱かせる記述もあるのです。良安は、摂津・河内ではこの魚は「赤毛止」と呼ばれ、その名は「赤班(あかまだら)の仮名の下を略した」ものだとしているのですが、「あかもと」は「あかもつ」「あかむつ」と同義で、カワムツの朱色の婚姻色のことを指すようなのです。もともとオイカワとカワムツはともにコイ科で、かなり区別しにくく、地域によっては、「はえ」「はや」などの名で混用されることもあります。しかしオイカワの婚姻色は緑がベースでオレンジの縞になるので、「あかもと」を「おいかわ」の地域名とするのは良安の間違い、といえそうです。流石の物知り良安も、そこまでは関知していなかったのでしょうか。
ところが一方で良安は、「牟豆」つまり「むつ」という魚についても論じています。しかしこの魚については「正字は未詳」、つまり、「むつ」に該当する魚は中国にはない魚としているのです。普通に見れば、この「むつ」もまた、「かわむつ」のことと思われますが、良安は「はえ」に似ていてほぼ丸く浅黒い、としているのです。しかしカワムツは背の青っぽい魚です。あるいは、この「むつ」は茶褐色のアブラハヤ、タカハヤなどを意識しているのかもしれません。
さらに良安は、「魚偏に輩」と書く魚について、「はえ」として、「蝿」を好み、群棲するとしているのです。この「はえ」の特性は、水草を好むオイカワよりは、水に落ちた昆虫を好み、群れをつくるカワムツに近いようです。
また一方で良安は、番代魚、「ばんだいうお」という魚について、どこにもいて長さ一寸ばかり、灰白色で背にもえぎと柿色の縦模様という特性を記しています。この模様はオイカワの婚姻色に似ているものの、オイカワはもう出てきているので、そうではないようです。
ここまで見て来て改めて思うのは、「はえ」「むつ」「おいかわ」「うぐい」などの区別がなかなかつかないことです。これらの魚は、今でいうオイカワ・カワムツ・ヌマムツ・アブラハヤ・タカハヤ・ウグイなどの魚を指しているのでしょうが、どうも書いている本人がよく理解をしていないようです。「はえ」「はや」については、「速く泳ぐ」ことから来ていると思われるのに、「蝿を好むからはえ」と書いていたりするのも、正しい知識を持っていなかった可能性を示唆します。
もともと「はえ」は、平安時代の歌人で、斎宮に来たこともある源俊頼に
ふしづけし おどろが下に住むはえの 心をさなき身をいかにせん
という歌がある位で、古いことばなのでしかたがないのかもしれません。今の方言でも、「はえ」「はや」はオイカワ、カワムツの他にも、ウグイ、アブラハヤ、タカハヤなどの魚を指し、かなり混同されているようでもあります。
次は「沙の下に魚」です。かなびしや、じんぞくとも読み、「蛇が魚偏になったもの」魚、吹砂、沙「温が魚偏になったもの」、沙溝魚などの異名を記しています。湖や谷川の水底や石間にいる小魚としています。「沙魚」とすると、ハゼの仲間を指す言葉です。ところが『本草綱目』では、「沙を吹いて遊泳し、沙をすすって食べる」、としています。砂をすするのはハゼではなくコイ科のカマツカの特性なのです。しかし良安の書いた部分では、砂を吸う記述はなく、しかも一・二寸の大きさとしていますので、ウキゴリとかヨシノボリなどの魚を意識していたと考えられます。
次は「石班魚」です。「石伏」の別名があるとしています。『本草綱目』では浮遊する魚としていますが、良安が「はぜに似ていて頭は大きく尾は細い、ヒゲがあり、硬いひれがあり、細かい鱗があるがないようにみえる。背の班文は浅黒く腹は白い。いつも石間に伏しているので石伏と称する」と、底生魚としていることです。ひげと細い尾と水底に住む特色は、カマツカにことごとく一致します。つまり『本草綱目』ではカマツカを沙魚とし、『和漢三才図絵』では石班魚だとしているわけです。ところが不思議なことに、ここでも良安は、カマツカの「砂を吸う」特性については、ひとことも触れていません。そして面白いのは、沙魚は京都では「かなびしや」といい、石班魚は「石伏」というとしていることです。「石ふし」は古い名で、『夫木和歌抄』という鎌倉時代に作られた歌集に、
誰かさは あみの目見せてすくふべき 淵に沈める石ふしの身を 源仲正
という歌があります。仲正は「ぬえ退治」と反平氏の旗揚げ第一号で有名な源頼政の父ですので、平安時代末期にはこの名はあったものと見られます。
こうして見ると、コイ科の魚の古名としては、鯉、鮒のほかに速い「はえ」、平べったい「たびらこ」、底にいる「石ふし」などがあったと見られます。それに「おいかわ」「むつ」「うぐい」「もろこ」「もつご」などの地域名が加わって、現在見られる淡水魚の名が定められたという複雑な過程がうかがえるようです。
ところで、「はえ」や「むつ」が割合にいい加減に取り扱われていた証拠を一つ。
オイカワの学名はZacco platypus、ヌマムツはZacco sieboldi、カワムツはZacco temminckiといいます。このZaccoというのは「雑魚」のことなのです。ひょっとしたら、幕末にシーボルトみたいな人がこの魚を採集して、近くにいた人に名前を聞いたら「ああ、雑魚(じゃこ)ですな」と言われたからこの名前になったのかも。とすれば、当時の庶民には名前がいいかげんなのも道理、オイカワもカワムツも「雑魚」だったのでしょうね。あ、今でもそうか。みんな「小魚」で片づくのだから・・・。
ところで、「ふるさとの清流 祓川」展では、三重県科学技術振興センター鈴鹿水産研究室のご協力により、祓川河口域で見つかった「ナメクジウオ」を展示いたします。「ナメクジウオ」は「ウオ」とはいうものの、魚類や私たちほ乳類などの脊椎動物より古い動物で、「生きた化石」といわれ、その生息地は天然記念物に指定されています。伊勢湾で採れたのは90年ぶりというこの貴重な生物、夏休みの自由見学のテーマにいかがでしょうか。
(学芸普及グループ リーダー 榎村寛之)