第66話  博物館に来る質問 その1

 斎宮歴史博物館では、この4月より、学芸員が展示コーナーの一角に常駐して、お客様と直接対応できる形をとっています。色々と問題も多いのですが、展示に興味を持たれるお客様からは、意外に難しいお問い合わせがあるのが面白いことのひとつです。
 中でも、特に学芸員を悩ませるのは、展示では事実のみを提供している部分の「意味」についての問い合わせです。例えば
・伊勢神宮はなぜ伊勢にあるのか
・伊勢神宮はもとから今の所にあったのか
・斎宮は伊勢神宮から10kmほど離れているが何故か
・そもそも女神のはずの伊勢神宮になぜ女性の斎王が必要なのか
・斎王はなぜ年間三回しか伊勢神宮に行かないのか
・斎王はいつから始まったのか
・なぜ斎王は無くなったのか
・斎王はなぜ難波で禊をするのか
etc etc・・・・
 これらの疑問はいずれもごもっともなことなのです。でも展示では答えられません。そして用意できる確実な答えは一つだけです。
「わかりません」
つまり、事実として記録はあるけれど、その理由についてはどこにも書いていないからです。それでも知りたい、というお客様には、ひとことお断りしてから、話を始めることにしています。
「ここからは、仮説と蓋然性の世界になります。ただしその説明には2~30分を要することもありますよ。」
 つまるところ1+1=2なんていう明答が出るはずもなく、質問者にも考えてもらわなければならない、ということをまずお伝えします。
 それでも聞きたい、という方には、それぞれの質問についての主要な史料を紹介し、研究史の現状を概説し、どこが議論の対象になっているのか、ということを理解していただきます。
 例えば伊勢神宮の成立については
・『日本書紀』にある伊勢神宮成立記事が『古事記』にない。つまり、『日本書紀』と『古事記』では伊勢神宮の位置づけが異なり、この成立伝承はそのまま信用することはできない。学界ではまず常識といっていい考え方である。
・巨視的に言って、大和朝廷の東方進出の中で、畿内に隣接する東側の境界である伊勢国に「王を守る神」を置いたという点は諸説一致している。その時期については3世紀(第一次大和政権成立期=伝垂仁天皇陵が造られた頃)、5世紀(河内地域に大型古墳が作られた後、雄略天皇と見られる「倭王武」または「ワカタケル大王」が東国を武力で征圧したと見られる頃)、6世紀(奈良時代に直結する王権を形成した継体・欽明朝の頃で、伊勢神宮に仕える皇女の記録が『日本書紀』に連続して見られる)、7世紀(壬申の乱の時、天武天皇が天照大神を遥拝したことで伊勢神宮が天皇の守護神になった頃)などの説がある。

・しかし伊勢神宮のある現在の伊勢市周辺は、発掘調査が進んでいないこともあるが、新・松阪市に属する地域に比べて大きな古墳がほとんどないといってよく、5~6世紀に受入母体になるような有力な地域勢力がいたかどうかは大きな問題である。つまり、なぜ今の伊勢市域に神宮が置かれたのかは、よくわからない。
・可能性としては、地域勢力が弱く、太陽信仰の聖地だったので、大和の勢力が直轄地的に扱えた、とも考えられる。
・ところがここで問題になるのは、その伊勢神宮が外宮なのか内宮なのか、ということである。外宮には雄略朝に丹後から来たという伝承があるが、この伝承は記紀にはなく、最古の例は9世紀初頭で、どこまで古いかはわからない。外宮は宮川の河口部、内宮は五十鈴川の奥にあり、立地条件は全く異なる。そのため、もともとは別の神社と見ることもできる。
・内宮の境内の荒祭宮境内では、5~6世紀頃の遺物が採集されており、荒祭宮祭祀遺跡と呼ばれる遺跡があることが知られている。つまり内宮の立地する場所が、古くからの祭りの場であったことは疑いない。ただしそのころから「大和に中心を置く勢力のリーダーを守護する神を祭る施設」としての性格が一貫しているかどうかはわからない。
・一方外宮は伊勢の港的性格を前提に成立していると見られ、東方へ開いた港の成立と不可分と考えられる。ところが今の外宮には航海神的な性格は見られない。そして外宮は内宮のミケツカミ=食事を捧げる神とされるが、食事を捧げる神が2キロも離れて立地するのは不自然である。
・そのため、伊勢神宮については、もともと伊勢の海民の神(外宮)があったところに大和の神(内宮)が来たので、地域神が食事を捧げる神に落とされた、いやいや地域神が皇祖神に昇格した(これが内宮)後に外宮が来たか置かれたかだ、という説の対立がある。
・さらにややこしいことに、壬申の乱以前の約70年間に伊勢神宮の記事が『日本書紀』には全くない。そのため、壬申の乱以前の伊勢神宮はまだ地方神だった、という見方もある。
・そして『続日本紀』の文武天皇2年条には、「多気太神宮を度会」に移すという記録がある。この多気太神宮が「内宮」なのか「外宮」なのか「太神宮司」なのか「太神宮寺」なのかについて議論がある。内宮だとすれば、それまで内宮は多気郡にあったことになり、ここまでの議論が根底からくつがえる。そして、それまで五十鈴の川上には何があったのか、「多気太神宮」は多気郡のどこにあったのか、などの議論が発生するのである。
このように、伊勢神宮の成立一つを取っても、わからないことが沢山あり、単純にお答えするのは大変難しいのです。またそこに、歴史を考える楽しみもあるのですがね。
博物館の展示は、単純明快をもって良しとします。しかし斎宮に関することは、一言でご紹介するのが難しいことが大変多く、ことはなかなか単純ではないのです。

(学芸普及グループ リーダー 榎村寛之)

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