第63話  斎宮百話 百人一首の…謎? その4 記念講演会のお話

 さる10月30日 斎宮歴史博物館講堂に180人を越える満員のお客様をお迎えして、記念講演会を開催いたしました。講師は私、榎村寛之と、百人一首研究の第一人者、同志社女子大学教授の吉海直人先生。百人一首の大家の前に講演を勤めるのは大変です。だって私は歴史研究者で国文学者じゃないし、古代史が専攻で中古文学、つまり平安後期は得意でもない、つまり二重の意味で百人一首は門外漢、いわば横綱の前座で幕下ならぬ四回戦ボーイのボクサーが相撲を取る、という位の異種格闘技になっているわけです。おまけにつけたタイトルが「伊勢物語と百人一首と斎宮」これで文学ネタではなく、歴史ネタとして喋ろうとしたものですから。
 この講演の根本は、藤原定家が、歌人だけではなく、伊勢物語の研究者として画期的な人物だった、ということから始まります。ならば定家は、伊勢物語の作者に擬せられる在原業平や伊勢物語をめぐる色々な伝承も知っていたはずだ、と推定し、それが百人一首の撰歌にどのように反映しているのか、ということを考えました。
 業平の歌
 ちはやぶる神代も聞かず龍田川唐紅に水くくるとは
は業平の歌としてはさほど名歌とは思えないうえに、伊勢物語(第106段)でも、親王が龍田川のあたりを散歩している時に業平が歌を詠んだ。というだけの物語しかない章段の歌なのです。そのため、この歌は、何のドラマもない、たいしたことのない歌が、なぜ百人一首に、不思議がられてきた、謎の歌のひとつとされてきました。
 ところで、百人一首の歌は、勅撰和歌集から採るのが基本だった、とされます。とすると、「ちはやぶる」の歌は伊勢物語ではなく古今和歌集から採られていたことになります。そこでこの歌を古今和歌集を見ると、大きく意味が変わっているのです。その詞書よると、この歌は、二条后の所に龍田川と紅葉の屏風があったのを見て詠んだ歌だというのです。つまりこの歌は、伊勢物語前半の最大スキャンダル、二条后藤原高子をめぐる物語の一部、その後日談となるのです。
 さて、伊勢物語をめぐる後世の伝承で、有名なものが二つあります。一つは藤原高子と清和天皇の子、陽成天皇は、じつは業平の子だというものです。この伝承を定家も知っていたなら、「ちはやぶる」の歌には、業平と高子、そしてその子の陽成院とのも関係が踏まえられているのではないかと思われます。
このような観点から業平の歌の周辺の歌人を見ていきましょう。
  12僧正遍昭(816生)  あまつ風   六歌仙の一人
  13陽成院(868生)   つくばねの  二条后藤原高子の子
  14河原左大臣(822生) 陸奥の    伊勢物語第一段に引用、伊勢に登場
  15光孝天皇(830生)  君がため
  16中納言行平(818生) 立ち別れ   業平の兄、伊勢に登場
  17在原業平朝臣(825生)ちはやぶる  本人
  18藤原敏行朝臣(840年代生?) 住の江の 伊勢に登場 業平の妻の妹の夫
  19伊勢(875頃生)   難波がた短き 伊勢の作者に擬せられる
  20元良親王(890生)  わびぬれば  業平と似たプレイボーイ、陽成院の子
このメンバーのうち、業平・行平(兄)、敏行(義弟)、陽成院(子)、元良親王(孫)と、五人までが血族で、河原左大臣と伊勢は、伊勢物語の重要関係者となるわけです。つまり、百人一首の10番台は、伊勢物語の関係者ばかり、と言っても過言ではありません。そして面白いのは、この中でもかなり若いはずの陽成院が、ずいぶん若い番号で出てきていることです。この並び方は、陽成院が十七歳で突然天皇位を追われ、次の天皇として、臣下に降りていた嵯峨天皇の皇子、源融が自薦したけれど関白藤原基経に一蹴され、大叔父にあたる光孝天皇が即位した、という歴史の流れを意識したものと考えられます。

 とすると、その後に行平・業平・敏行の「三兄弟」が続くことにも意味があるのではないでしょうか。歴史上の業平は陽成院の蔵人頭でした。蔵人頭は天皇の秘書官長なので、天皇専制の体制なら、その威光を受けて大きな権力を持つようになります。つまりもしも業平が70才まで生きて、陽成院が壮年期まで天皇だったら、晩年の業平は大きな権力を得ていたはずだ、とする研究があります。
 実際、陽成院だけではなく、その母の藤原高子も、藤原基経(実の兄)と対立し、後に皇太后の位をはく奪されるという政治的暗闘を起こしているのですから、もしも高子に頼れる後ろ盾がいれば、状況はもっと変わっていたかもしれないのです。そして業平は、嵯峨天皇の兄、平城天皇の孫でした。長男が本来の正統という考え方から、天皇家の正統は、平城天皇の血統にこそある、ということになります。つまり、行平・業平は、世が世なら天皇だったかもしれなかいうえに、陽成が元気なら、平城系の天皇が皇位を継いでいったかもしれないのです。そして業平は、もうひとつの定家のお気に入り、源氏物語の、隠し子である冷泉院から位を譲られそうになった光源氏くらいのポジションになっていたかもしれないのです。 
 このように、13から17まで五人の歌人は、陽成から光孝への天皇系統の移動を示すとともに、伊勢物語伝承の世界でいえば、平城天皇-阿保親王-在原業平-陽成院という、平城系天皇の復活の道が絶たれ、業平らが嘆いている、という物語も想定できるのです。行平の歌は「立ちわかれ」ですし、業平の歌は、龍田川=竜(皇帝を意味する)の血統に「唐紅(外国の血)」が入るなんて、ということになります。唐紅は、光孝天皇の妃で、宇多天皇の母である班子女王の母が渡来系氏族の当宗氏で、その氏族祭祀である「当宗祭」が、宇多天皇即位の後に国家祭祀とされ、平安時代の終わりまでずっと続いていることを意識している、とも考えられます。
 さて、もうひとつの有名な伝承は、業平と斎王恬子内親王の間に子供ができていて、その子は高階氏の養子となって師尚と名乗り、その子孫はずっと続いている、というものです。これについて面白いのは、藤原敦忠と藤原道雅の存在です。
前にもふれたことがありますが、藤原敦忠は業平の孫娘と藤原時平(基経の長男)の間に生まれた子で、業平のひ孫になります。そして醍醐天皇の娘、斎王雅子内親王との恋歌の贈答で知られています。
 つぎに藤原道雅は、藤原道長のライバルだった藤原伊周の子になります。伊周は妹で一条天皇の妃になった定子(清少納言が仕えた人)とともに、百人一首歌人の儀同三司母の子です(儀同三司とは藤原伊周に送られた名誉称号、つまり藤原伊周の母、という意味)。儀同三司母は道長の兄の、中関白と呼ばれた藤原道隆の正妻で、本名を高階貴子といいます。そう、業平の隠し子、高階師尚の子孫なのです。道雅は貴子の孫となり、伝承の世界ではやはり業平の血が流れている、ということになるのです。そして道雅は、三条天皇の娘で、その時代の斎王当子内親王との悲恋で知られています。
 そして興味深いのは、『栄華物語』では、道雅と当子の恋を業平と斎王の恋になぞらえ、さらに、藤原敦忠と雅子内親王の贈答歌を踏まえた書き方をしていることです。つまり、『栄華物語』では、業平・敦忠・道雅は同列に捉えられているのです。定家がこの話を知っていたとすれば、敦忠と道雅が百人一首に採られた理由もわかってきます。斎王と業平の秘められた恋は、何度も何度も百人一首に表れてくるのです。伊勢物語の重要なテーマ「斎王との恋」もまた、巧みに百人一首に織り込まれているのではないでしょうか。

(主幹兼学芸員 榎村寛之)

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