第62話 斎宮百話 百人一首の…謎? その3
ここまで百人一首の成立過程がよくわからない、という話をしてきましたが、さてみなさん、成立過程がよくわからない、ということは、百人一首の歌人や歌が、どういう基準で選ばれているのかがわからない、ということではないでしょうか。
百人一首というと、優れた歌人の最高の歌が並んでいるんじゃないか。思われがちですが、じつは意外に無名の歌人が混じっているのです。たとえば
これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関
の蝉丸は、伝説上の人物です。
一方、有名な人でも、
夜をこめて鶏の空音ははかれども夜に逢坂の関は許さじ
の清少納言は、女流文学者としては世界的な有名人でも、歌人としてはほとんど評価されていないし、
小倉山峰のもみじ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ
の貞信公藤原忠平は、政治家としては有名ですが、歌人としてはそれほどでもなく、この歌もほとんど評価されていません。
というわけで、なぜこのメンバーでこの歌が、という疑問は、かなり古くからあったようなのです。そしてこの20年ほど、昭和後期以来、百人一首の「謎」についてのいろいろな説が出されるようになりました。その主流になったのは、織田正吉さんや林直道さんといった、国文学者以外の人たちで、主な方法は、百人一首の歌が相互に関連しているのではないか、ということから、その歌の選び方の隠された意図を探ろうというものでした。
たしかに、例えば
秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ 天智天皇 と
君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ 光孝天皇 とか、
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき 猿丸大夫 と
世の中よ道こそなけれ思ひいる山の奥にも鹿ぞなくなる 藤原俊成 とか
百人一首の中に、おたがいに関係のありそうな歌がいくつも見られることは以前から何となく知られていたようです。しかし、歌の題というのは限られたものだから、似てもくるだろう、という見地からでしょうか、それについての研究は国文学の専門家の間ではほとんど行われてこなかった、というのも事実です。その意味で、百人一首の書誌学的な研究自体、まだそれほど進んでいるわけではなく、織田氏や林氏の研究は、いわば盲点をついたものとして、広く知られるようになりました。
さて、こうした研究では、百首の歌はジグソーパズルかパッチワークのように、その内容を問わず、いわば無駄なく組み合わさる、ということになります。
私などは、定家やその周辺の人がそこまで考えるかなぁ、という気もするのです。もっと単純な考え方もあるのではないか、ということですね。
さて、今回の展覧会で提示している「謎」の基本は、百人一首の天皇にあります。百人一首には八人の天皇がいます。天智天皇・持統天皇・光孝天皇・陽成院・三条院・崇徳院・後鳥羽院・順徳院です。
これらの天皇に注目した人は少なくなく、例えば織田氏も、最終的には、後鳥羽院の鎮魂が百人一首の目的だった、としています。
この展覧会では、「百人秀歌」に後鳥羽院と順徳院が入っていないことにまず注目しています。百人秀歌と百人一首はほとんどそっくりです、しかし並べ方には違いがあります。この事実には二つの大きな意味があるように思われます。まず、藤原定家にとって九十八人の歌人の九十八首の歌が大事だったこと、そして後鳥羽院・順徳院が追加されることで、その「設計思想」はより明確になったのではないか、ということです。
こうした見地から、この展示では、天智と光孝の歌が似ていること、崇徳・後鳥羽・三条の三人の流刑にされた天皇が入っていること、そして陽成院の歌。
みちのくのしのぶ文字ずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに
や、三条院の歌
心にもあらで浮き世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな
のように「不幸そうな」歌が入っているのはなぜか、などといった問題点から、百人一首の中で天皇とその歌が果たしている役割を考察してみます。
そして天皇の役割を基準に考えると、百人一首の中で重要な人物、たとえば摂関家の貴族や、天皇の血縁者たち、あるいは、紀貫之のような重要な歌人が、どのような役割を果たしているのかが見えてくるのではないか、という観点から、さらに考えを深めています。
こうした話は展覧会の限られた空間だけではかたづくものではありません。この話、詳しくは図録の中でより詳細に論じています。
会期も残り少なくなってまいりました。ぜひお越し下さいますようお願いいたします。
(主幹兼学芸員 榎村寛之)