第61話  斎宮百話 百人一首の…謎? その2

 さて、百人一首を考える上で、はずせない資料に「百人秀歌」という本があります。百人秀歌を簡単にいえば、「歌人と歌の並び方がちょっと変な百人一首」です。
 この本がはじめて学界に紹介されたのは昭和二六年(1951)のことでした。そしてこの「ちょっと変な」所が、大問題になったのです。
変な所は、次の通りです。
① 百人一首の歌人のうち、最後の後鳥羽院、順徳院の最後の二人がおらず、「一条院皇
后宮」「権中納言国信」「権中納言長方」の三人が入っており、厳密には「百一人一首」になる。
② 源俊頼の歌が「うかりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを」ではなく、「山ざくらさきそめしよりひさかたのくもゐにみゆるたきの白いと」である。
③ 藤原家隆の官位が「正三位」である。
④ 百人一首と歌の並び方が異なり、最後は入道前太政大臣の歌である
⑤ 「百人秀歌」という題の下に「嵯峨山庄色紙形 京極黄門撰」の注記がある。
⑥ 「上古以来の歌仙の一首、思ひ出づるに随ひて之を書き出だす。名誉の人、秀逸の詠、皆之を漏らす。用捨は心に在り。自他傍難有るべからざるか」という奥書がある。
 何がどう問題なのかを、第60話を思い出しつつ簡単に説明しましょう。まず①は、百人一首成立の時期と密接に関係するはずの二人がいないことになり、大きな相違となります。次に②は置いて、③は百人秀歌が、百人一首の成立下限とされていた「従二位家隆」の表記より古いということになります。④は、百人秀歌がより歌合的な配列をしていることの証拠とされます。⑤の「京極黄門」とは、中納言定家の意味で、百人一首にはどこにも表記のない藤原定家の名が見られるわけです。そして⑥は、百人秀歌の編集意図を著したものですが、名歌人の歌や名歌をみな漏らした、というのは、なぜか名歌人で漏れている人がおり、採られている歌人でも、その人の名歌が記されているわけではない、という百人一首の特徴に対する答えになるものでもあります。
 このように、百人秀歌は、百人一首より古く、定家の作だという証拠もある本だという見方ができるのです。
 ところがこの本は、どんな百人一首の注釈書にも引用されていない謎の本なのです。で、あるいは偽書ではないか、ともいわれたのですが、京都の冷泉家、つまり定家の子孫の家に鎌倉時代末期頃の写本(百人一首の最古の写本より古い本)があることがわかったため、それも考えがたくなりました。そして実際には、百人一首の写本の中にも、百人秀歌の並べ方の影響を受けているものも少なからずあることが近年明らかになってきました。つまり、百人一首と百人秀歌は、どちらが古いかはともかく、お互いに影響しあってきた本であることは間違いないようなのです。にもかかわらず百人秀歌は、百人一首の故実、つまり歌道の家が伝えた古典的な研究の中でも、ある時期に完全に忘れ去られていたようです。この事実をどう評価するかで、百人秀歌の評価も大きく変わってきます。

 たとえば、⑤の「京極黄門」という書き方は、藤原定家という本名を避けた呼び方です。つまり本人の書き込みではないことになり、定家の撰だというのも後世の考え方ではないか、という見方ができます。あるいは後鳥羽院・順徳院の二人がないのは、承久の乱の責任者である二人を、鎌倉幕府をはばかって外したものだ、という見方も可能です。つまり平たくいえば、百人秀歌は百人一首よりも新しい、アレンジバージョンだという見方も出てきたのです。
 こうした話をさらに混乱させているものに、『明月記』の記述があります。藤原定家の日記として知られるこの本の、文暦二年(1235)五月二十七日条に、このような記述があるのです。
 「蓮生入道から依頼があり、嵯峨の山荘に天智天皇から、家隆・雅経に及ぶ色紙形を送った」
 この記述が注目されたのは、なぜか江戸時代になってからでした。蓮生入道というのは宇都宮頼綱という鎌倉幕府に仕える武士(御家人)ですが、歌人としても知られた人です。そして定家の子、為家の妻の父だったので、定家が色紙を贈っても不思議ではありません。しかもその色紙が天智天皇から始まる、ということから、この色紙形と百人一首の関係が注目されたわけです。そして、百人秀歌には「嵯峨山荘色紙」という言葉も出てくるので、百人秀歌の発見後は、その関係も類推されるようになりました。つまり、小倉山荘色紙は百人一首、嵯峨山荘色紙が百人秀歌ではないか、ということです。
 しかし一方では、この史料についても、「百首とはしていない」「藤原家隆・雅経は百人一首、百人秀歌でも最後の歌人にはなっていない」ということから、百人一首でも百人秀歌でもない、別の色紙、いわば百人一首や百人秀歌の原型、という考えもできるのです。
 そして一方で、世間には、「小倉山荘色紙」と称する色紙も出回っています。百人一首の歌を書いた色紙で、室町時代以来、百人一首の原型「小倉山荘色紙和歌」だとされてきたものです。その中には藤原定家直筆と推定されるものもある、ということなのですが、何分全部そろっているわけではないので、これが百人一首なのか百人秀歌なのかはどうもわからないということです。しかも、この色紙は、室町末期以降、茶道の流行で、茶室に飾ることが流行し、偽物がたくさん作られて、その実態がますますわからなくなってしまったようなのです。
 このように、百人一首の原型については、いろいろな状況証拠があるものの、確たる証拠があるわけではないのです。したがって、その成立過程についても、どの資料を重視するかで、いろいろな説が立てられ、いまだ定説は見られていない、というのが現状なのです。

(主幹兼学芸員 榎村寛之)

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