第60話 斎宮百話 百人一首の…謎? その1
斎宮歴史博物館では、この秋、百人一首の展覧会「百人一首の世界―天皇と歌人たちが語る王朝の謎―」を開催いたします。
そのため、斎宮百話では、これからしばらく、百人一首裏話をいくつか。
① 百人一首成立の時期と歌人の表記
百人一首は藤原定家が鎌倉時代前半に選定した歌集です。
と、言ってしまえれば簡単なのですが、これが意外に難しいことがわかってきました。先ずは、本当に定家が選定したのかどうか、ということについて。
百人一首といえば「かるた」ですが、もともとは写本の形態で伝わったものでした。しかし、その写本には、藤原定家が撰者だ、とはひとことも書いていないのです。定家は歌人の一人として出てくるにすぎません。つまり百人一首本体には定家撰の証拠はありません。
ここで問題になるのは、最後の二人の歌人、後鳥羽院と順徳院の「名前」です。
少し歴史に詳しい方ならご存じでしょうが、後鳥羽院は承久三年(1221)に起した承久の乱に敗れ、隠岐島に、同時に息子の順徳院は佐渡島に流されます。もしもこの話を時代劇にするとして、例えば北条政子など鎌倉幕府関係者が「後鳥羽院のあたりに挙兵の動きが…」という台詞があったとすれば、それは明かな時代考証の誤りなのです。
これはいまでもそうですが、在位中の天皇は、「今上(きんじょう)」とか「当今(とうぎん)」と呼ばれ、名は諱(いみな)といって、直接呼ばれることはありません。そして退位して上皇になると、「院」と呼ばれるようになります。そして亡くなると、その居所(白河院とか)などによって名が定められます。
そして、後鳥羽院は仁治三年(1242)七月八日、順徳院は建長元年(1249)七月二十日に定められた名なのです。つまりこれ以前はこの名では呼ばれていないのです。ところが定家の没年は仁治二年(1241)です。つまり定家が百人一首を制定したのなら、最後の二人はこの名で書かれているはずがない、というわけです。
それでは百人一首の撰者は定家ではないのか、というと、これもそうとは言えないのが困ったものです。
じつは百人一首が重要視されるのは室町時代に入ってからで、現存最古の写本は文安二年(1445)に書写されたものにすぎません(今回展示)。百人一首という書名がはじめて見られるのも、応永十三年(1406)に書写された『百人一首抄』という注釈書(今回展示)からなのです。しかもこの本には、百人一首は藤原定家の撰で、正式には「小倉山庄色紙和歌」といい、百人一首は通称だ、としています。つまり百人一首という名は、室町時代に小倉山庄色紙和歌に代わって定着したらしいのです。
このように、鎌倉時代にさかのぼる百人一首の写本は存在しません。しかし室町時代の写本は、百冊以上も残されているらしいのです。つまり百人一首は、歌書としては鎌倉時代にはそれほど重要視されず、百年以上たってから急激に普及したということになります。そしてその間の事情はほとんどわからないのです。これではいつ「後鳥羽院」「順徳院」が定着したのかがよくわかりません。
しかし『百人一首抄』が定家の撰だとしていること、定家の子孫であり、鎌倉時代後半に歌壇の覇を競った二条家、冷泉家、京極家などがいずれも異を唱えていないことなどから見ても、定家が深く関わっていたことは恐らく間違いないようです。あるいは、定家の子の藤原為家などが、もともと「隠岐院」「佐渡院」などとされていたのを差し替えたのではないか、とする説が有力なようです。
さて、このように、百人一首が今見られるような形になったのは、いくら早くても順徳院の院号が定められた1249年以降ということになります。では、その原形の成立はいつのことなのでしょう。
この点について、従来大きな証拠のひとつとされてきたものに、藤原家隆の官位があります。藤原家隆は、定家と並び称せられた歌人で、新古今和歌集の撰者となり、百人一首には「従二位家隆」の名で現われます。この人、藤原を名乗りながら、摂関家から見れば、姓が同じでも他人同然の家の出身です。なにしろ、藤原摂関家の祖とされる藤原冬嗣の子、良門(良房の弟)の子孫で、早い話が四百年前の分家、しかもその系統からは堤中納言といわれた藤原兼輔(百人一首歌人)と紫式部くらいしか有名人が出ていない、という日陰の家、定家でも先祖をたどれば藤原道長に行きつくのと比べても、いかに遠い親戚かがわかるでしょう。それが白河院の時代に、藤原清隆という人が近臣として重く用いられたことから急に勢力を伸ばしたというわけです。つまりせいぜい家隆の百年くらい前から政界に復帰してきた、いわば帰り新参の家なので、自分も周囲も、冠位への注目度は極めて高い、ということになります。
で、家隆が従二位になったのは文暦二年(1235)九月十日なので、百人一首成立の上限は1235年となります。そして定家の没した1241年が下限とすると、この六年の間に定家は百人一首を選定した、と考えられてきたわけです。
ところがこの考え方には、一つ大きな難点があることがわかってきました。それは「正三位家隆」とした百人一首が存在することです。
例えば、今回展示する資料の中では、江戸時代に作られた「小倉擬百人一首(百人一首と歌舞伎を合体させたもの)」と「百人一首かるた」の一つに、「正三位家隆」と書かれています。つまり同じ百人一首でも、本によって「正三位家隆」「従二位家隆」の二通りがあったのが、たまたま古い写本に「正三位」が見られないので、見落とされてきていたようなのです。こうして、家隆の叙位もまた決定的な証拠にならないことがわかってきました。
では、百人一首の成立は、1235年以前なのでしょうか。ところがそうは簡単にはいかないのです。ここに介在してくるのが、百人秀歌と呼ばれる、百人一首に似た、聞きなれない本なのです。
次回は、百人一首と百人秀歌の関係についてから続きを始めましょう。
(主幹兼学芸員 榎村寛之)