第57話  斎宮百話 斎宮と江戸文芸 その2

 さて、『伊勢物語』をとりあげたので、次は『源氏物語』にまいりましょう。
『源氏物語』のパロディーとしてよく知られているのは『偐紫田舎源氏』という作品です。作者は柳亭種彦(1783‐1842)で、1829年から書き始められ、1842年に絶版処分を受けて中絶した戯作で、源氏物語を室町時代に置き換えたものです。前半のあらすじは、将軍足利義正の子の足利光氏が、好色を装って失われた将軍家の秘宝を探す、というもので、源氏物語の大筋を踏まえて物語が展開しています。
 さて、この話の中で、六条御息所と秋好中宮母子はどのように描かれているのでしょうか。
 まず、六条御息所は、源氏物語では光源氏の亡くなった叔父で、皇太子だった人物の未亡人で、源氏の年上の恋人となっている女性です。この話では、京は六条三筋町二見屋の、今をときめく人気の遊女です。年は二三、四才で、「盛りは少し過ぎたれど、今も昔の色香失せず、訪ひよる客は数多なり」ということです。しかもこの女性、実は光氏の伯母がある法師との間にもうけた不義の子で、紛失した足利の重宝「勅筆の短冊」なるものを持っているのです。ということから光氏は好色を装って宝物を探るため、彼女に接近します。このあたりの設定は、大幅に書きかえられていますが、面白いのは、この女性の名が「阿古木」、幼名を「伊勢」というのです。伊勢の阿漕浦を効かせた名をつけているのです。
 次に秋好中宮は、阿古木の娘の磯菜という名で出てきます。阿古木が奥州石巻の郷士、前斎(ぜんさい)に妾奉公している時に生んだ娘です。その話を阿古木から聞いた光氏は、その前斎はじつは腹違いの兄だと言い、将軍家の姫として成長させるため、伊勢国、度会郡の陣屋に住まわせようと言い出します。しかしこれは光氏に執着する阿古木を遠ざけ、一方で勅筆の短冊を取り戻すための方便だったのです。光氏は二人を、腹心の仁木喜代之助(源氏の伊予介にあたります)の、野宮の傍らの下屋敷に仮に起いた後、喜代之助を伊勢に下らせ、その妻の空衣(源氏の空蝉にあたります)に二人の世話を命じます。
 そして葵祭の日に、阿古木の駕籠が、光氏の正妻の二葉の上(源氏の葵の上ですね)の乗物とがぶつかって大喧嘩、阿古木の生霊が二葉の上を取り殺し、その時に勅筆の短冊が光氏の手に残る、という「葵」の趣向も取り込まれています。
 光氏は野宮参篭と称して喜代之助の下屋敷を訪れ、やがて阿古木母子は伊勢に下ります。屋敷は野宮神社の西にあり、などと源氏物語を効かせてはいますが、このあたりあまり精彩はないようです。そして光氏が須磨、明石を放浪した後、都に帰った阿古木は磯菜を光氏に託し、光氏は磯菜を新将軍足利義植の室に入れます。この後絵巻比べがあるなど、源氏物語に沿ったエピソードが見られますが、ここにもそれほど気の効いた趣向は見られないようです。

 このように、江戸後期の文学に大名を轟かす柳亭種彦先生も、斎宮の処理には大変困っているようです。考えてみれば、斎宮は室町時代にはないのだから、本来使えない、使えないと天皇の代替わりで帰ってくるという趣向も使えない。そして六条御息所はともなく、元斎宮であること以外にアピールポイントのない秋好中宮の書きこみは、弱くならざるを得ないのです。やはり斎宮という、江戸の読者にはなじみの薄い素材は、使いにくかったのでしょうか。
 ところが一方で、読者が斎宮を知っていることを前提に、その名を堂々と使った作家もいるのです。それは、江戸時代の小説家きってのストーリーテラーで、博学多才のうるさ方、日本史上はじめて物書きで生活できた人物としても知られる、かの曲亭(滝沢)馬琴です。
 馬琴の小説で『南総里見八犬伝』とならぶ大作に『椿説弓張月』があります。これは保元の乱に敗れて伊豆大島に流された鎮西八郎源為朝が、そこで死なずに脱出して、ついに琉球を平定し、その子が琉球王となった、という壮大なスケールの物語です。この中に斎王がちらりと出てくるのです。それは、琉球の巫女についての説明の箇所です。
 「琉球国では、大木や木石をことごとく神としてあがめ、ことに君真物(きんまんもん)を尊ぶ。この神は国の守護神で、おりおり巫女に託宣する。巫女は三十三人はみな王家の者で、王妃もその一人である。これは日本で、いにしえに内親王を斎宮として、伊勢神宮に奉ったようなものだ」
 ここでは読者が斎宮を知っていることを前提に、聞得大君をはじめとする琉球の巫女を説明しているのです。ここだけを見ると斎宮は『弓張月』の読者なら誰でも知っていた、という観じになります。でも、馬琴先生の場合、ちょっと割り引いて考える必要があるようです。
 曲亭馬琴先生といえば、雑学博士が山のようにいた江戸時代後期でも、碩学の中の博学といえるぐらいの物知りです。そして馬琴は、「そのくらい知ってるだろう」といわんばかりに、日本や中国・朝鮮・天竺などの歴史・故事・伝説を引用するという書き方が得意なのです。だからここに書かれているからと言って、『椿説弓張月』の読者が斎宮を知っていたとは限らないのです。
 このように江戸時代の文芸といっても、じつに色々で、改めて見るとなかなか面白いものです。しかし、『源氏物語』や『伊勢物語』のパロディーでたくみに採りこまれていたり、例として引用されていたりしていることから見ても、読本を読むくらいの上級の市民層はある程度知っていたようではあるらしいのです。もしかしたら、現代以上によく知られていたのかもしれません。

(主幹兼学芸員 榎村寛之)

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