第56話  斎宮百話 斎宮と江戸文芸 その1

 斎宮についての物語が、『伊勢物語』や『源氏物語』などの平安時代の文芸に見られることは、古典文学ファンの方々には、よく知られているところです。
 ところで、こうした平安時代の文芸、いわゆる王朝文学を愛好したのは、何も現代人ばかりではありません。
 現在まで続く王朝文学ブーム?のスタートは、江戸時代にさかのぼります。『伊勢』も『源氏』も、江戸時代の市民は広く愛好した「お話」でもあったのです。その証拠に、江戸時代には、平安時代の物語のパロディーがベストセラーになって、発禁事件さえおこっていたのです。
 ここまでは高校の古典などであるいはご存じの方も多いのではないでしょうか。では、それらの話では、江戸時代には亡んでいた斎宮については、どのように書かれていたのでしょうか。
 その代表として、ふたつの作品を紹介しましょう。『仁勢物語』と『偽紫田舎源氏』です。まず第一回は、『仁勢物語』から。
 『仁勢物語』は、「仮名草子」と呼ばれる文芸の一種です。1640年頃に創られて、1650年頃に刊本として出版されたといいますから、井原西鶴の『好色一代男』なんかが出るより、もう少し前の作品となります。版本が出たということは、それなりに売れた、ということでしょう。そして、その中身は、『伊勢物語』一二五段すべてのもじりです。つまり、伊勢物語を知っている人が楽しむパロディーとして創られたものなのです。
 たとえば『伊勢』の初段は、「昔男」が、「初冠(ういこうぶり)」、つまり元服して奈良の春日の里に狩に行き、「いとなまめかしき女はらから」、つまり美人姉妹を口説いた、という話です。これが、「をかし男」、つまり「おかしな男」が、「頬被り(ほうかぶり)」して春日の里に酒を飲みに行き、「いとなまぐさき魚、腹赤(はらか=マスのこと)」を買ったところ、金がなくて困った、という話になっている、というわけです。
 ちなみに
 春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れ限り知られず
の歌は、
 春日野の魚に脱ぎし借り着物酒飲みたれば寒さ知られず
という狂歌になります。
 では、第六十九段「狩の使」はどのような話に変わったのでしょぅ。
 おかしな男が伊勢国に、バクチをうちに行ったところが、かの伊勢国のバクチ打ちの上手な人が歓待してくれた。(バクチは禁制なので)二日目の夜に男はこっそりと打とうとして、伊勢のバクチ打ちもその気になったが、人目が多いので打てなかった。そこで人を静めて、子の刻ばかりにバクチ宿に行って待っていると、
「月の朧なるに、小さき賽をあまた持ちて人立てり。男いと嬉しくて、吾居る所に率て入て、子一つより丑三つまで打つに、まだ勝負もあらず、打明しけり」。
(ここは、
「月のおぼろなるに小さき童を先に立てて人立てり。男いと嬉しくて、わが寝るところにゐて入りて、子一つより丑三つまであるに、まだ何事も語らはぬにかへりにけり。」
の、みごとな換骨奪胎です。)
 朝、灯りの油代を送るかどうか迷っていると、宿主より
 君や勝ちし人や負けけん思ほえず勝ちか負けたか下手か上手か
 と歌を送ってきたので
 打明かす油の銭にまどひにき下手上手とは今宵定めよ
と返歌しました。
(元歌は、
 君やこしわれや行きけん思ほえず夢かうつつか寝てかさめてか
 かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは今宵定めよ)
ところがその日、伊勢国守が、賽の上手なバクチ打ちがいるとの情報を得て探索(つまりガサ入れというアレですね)に来たので、バクチもできず、翌朝、尾張の国に逃げようとすると、
 勝ち逃げに貰へどくれぬ銭しあれば
と上の句が送られてきたので、
 この飲む酒の代はやらなむ
と返した。賽打は、水尾の御時、惟喬の御子の馬取であった。

 こんな話で、斎宮は全く出てきません。しかし伊勢国を残して、「斎」と「賽」をかけた発想は、おそらく「斎宮」を知っていることを前提にしているようで、なかなかに面白い着想だと思います。

(主幹兼学芸員 榎村寛之)

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