第54話  斎宮百話 新発見!? 在原業平と斎王の歌

 伊勢物語第69段は、「狩の使」と通称され、斎王と在原業平らしい男の一夜の恋物語として広く知られています。その真偽については色々な説があり、ここでは深く立ち入りません。その意味するところについては、「『斎王の恋』と平安前期の王権」(『古代文化』56巻1号 2004年)という論文に私見を書きましたので、興味のある方はごらんいただくとして、今回はその後日談が中世に語られていた、という話です。
 『古今和歌集灌頂口伝』という古今和歌集の秘伝書があります。その写本の一つには、正安元年(1299)の年記と、藤原定家のひ孫で、鎌倉後期の歌人として知られる二条為世の署名と判が末尾にあるという本です。その作者が信じられないにしても、十三世紀の古今集の秘伝書だったことはほぼ間違いないところとされます。
 この書物の中に「伊勢斎宮かりの使の事に八首の秘歌有」と題し、次のような歌が揚げられているのです。
①都にてながめし月のもろともに 旅のそらにも出にけるかな    
②おもひ出もなくて我身はやみなまし おばすて山の月みざりせば  
③名にたかきおばすて山はみしかども 今夜ばかりの月はみざりき  
④水上をさだめてければ君が代に ひとたびすめるほり河の水  
⑤いかなれば待には出し月影の 入を心にまかせざるらん      
⑥相坂の関の杉村かれはてて 月ばかりこそむかしなりけれ     
⑦木の本にかきあつめたることのはは ははその森のかたみなりけり
⑧みるめかるかたやいずくぞさおさして我にをしへよあまのつり舟
 それぞれの歌には簡単な説明がついていて、①の歌は、都で藤原高子に会ったようにやさしい人、つまり斎王にあった、という思いの歌だとされています。② は、斎王の歌で、斎王という立場なので何の思い出もなかったのに、業平に逢えてなぐさめられたという歌だとされます。③は、斎王の名は高いけれど、業平に逢ったということほどの(思い出に残る)事はない、という趣旨だと説明されます。④の「ひとたびすめる」はひとたび業平に逢ったことか、とされます。⑤は京に帰る業平に斎王が送った歌、⑥は業平に逢うことも絶え絶えになったが、物憂い身だけは昔のままだという意味、⑦は業平が斎王からたくさんもらった文を見て詠んだ歌。そして⑧は業平が上洛する時に、大淀のわたりで一夜とどまって詠んだ歌とされます。
 何と、「きみやこしわれや行きけむ思ほえず 夢かうつつか寝てかさめてか」しか歌が知られていない恬子内親王の歌が一挙に五首も増えるのです。誰も気づいていない大発見!!
 と、言いたいところですが、どうもそうは単純にはいかないようです。例えばこの中で⑧の歌について「あれっ!」と気がつかれた方、あなたは伊勢物語の通です。この歌は、じつは『伊勢物語』第70段に見られるもので、秘歌でもなんでもないのです。

 もともと古今和歌集の斎王と業平の贈答歌は、
 きみやこしわれや行きけむ思ほえず 夢かうつつか寝てかさめてか
 かきくらす心の闇にまどひにき 夢うつつとは世人定めよ
で、『伊勢物語』第六十九段の後半に見られる
 かち人の渡れど濡れぬえにしあれば また逢坂の関は超えなむ
の歌以後のものは出てきません。この二首で終りなのです。そのため、『伊勢物語』に採られている歌も「秘歌」とされたのでしょうが、それにしてもなんだかいい加減です。
 おまけに、歌には全くの素人の私が見ても、⑧を除いて一つとして心に響くものがありません。「かち人の」の歌以下、『伊勢物語』の六十九段以後につづく斎宮関係の段に見られる

ちはやふる神のいがきも越えぬべし 大宮人の見まくほしさに
恋しくば来てもみよかしちはやふる 神のいさむる道ならなくに
大淀の松はつらくもあらなくに うらみてのみも帰る波かな

などの歌に比べても、格段につまらないと思いますし、第一、斎宮を匂わせる言葉も全くありません。特に業平の歌とされる①や⑦は、とても歌仙在原業平の歌とは思えなせん。仮に、このエピソードが公開されていたなら『伊勢物語』第六十九段は何とも情趣のない話になってしまうでしょう。
 どうもこれらの歌は、全く関係ない歌を、後世にこの物語に付会したものに間違いはないようです。
 何しろこの「秘伝書」は、業平関係の部分を見てもかなり不可思議で、業平が誕生した時に、母の体から曼荼羅花などの花が四方に散ったとか、陽成天皇は実は業平の子だ、とか、東下りとは実は東山にあった藤原基経の邸に三年間押し込められていた時に書いたフィクションだ、とか、三河の八橋とは、三人の后と八人の姫の十一人の恋人の比喩だとか、隅田川の歌の下りは、陽成天皇の即位を示す暗号だとか、近年の流行語に即して言えば「トンデモ本」と見まがうばかりなのです。
 じつは和歌に限らず、歴史書や神道書などの、中世に書かれた「秘伝書」には、しばしば密教の影響下に色々なことをオカルトめかした解釈をする、摩訶不思議なものが見られるのですが、これもその一つとみることができましょう。
 というわけで、どうやらあまり信用できないものですが、中世の斎宮観を考えるうえでなかなか興味深い文献なのです。
 なお、この秘伝でも最後は、二人の間には子供がいて、高階氏の養子となり、高科師尚となった、と締めくくられています。「隠し子がいた説」が中世を通じて歌の世界で強い影響を持ち、近世・近代を経て現代に至っていることがよくわかります。

(主幹兼学芸員 榎村寛之)

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