第53話  斎宮百話 史跡の東を歩いてみると…

 前回は史跡の西端、祓川のお話でしたので、今度は東の方に目を移してみましょう。
明治時代に書かれた『神都名勝誌』は、斎宮の遺跡の範囲を次のようにしています。
  東は鈴池
  西は国道(参宮街道のこと)より坂本に至る路の東傍
  北は「ゆうぜん堀」
  南は天正年間に北畠の家臣乾某の開墾した村、西堀木郷
 このうち、東の鈴池という地名は、参宮街道沿いの小字として残っていて、近鉄斎宮駅と竹神社の間の街道の南側あたりです。西の「国道より坂本に至る路」とは、現在の博物館の前を南北に走る道、北のゆうぜん堀とは、現在「大溝」(別名「鎌倉時代大溝」)と呼ばれる、平安末期~鎌倉時代初期頃に掘られた大きな溝で、発掘で確認された所でも、最も深い所で2mほどもありました。どうやら斎宮跡の北側を囲うようにアーチ状に走っており、戦前頃までは、部分的に堀くぼみが残っていて、いまでもその跡に沿って竹薮が残っている所も見られます。南の西堀木は『斎宮村郷土誌』(斎宮村商工会 1935年)によると、今の大字牛葉のことで、これは鈴池も含む、参宮街道の斎宮駅前から東の方の斎宮の街の部分にあたりますから、参宮街道あたりを南限と考えていたようです。
 このように見ると、現在の史跡の範囲とは南北は今の史跡範囲とそれほど変わりませんが、東西はそうとう異なっています。具体的には、鈴池だと今の方格地割の西の端の道路近くになってしまうのです。少なくとも方格地割については、明治頃には正しい知識がなかったことは明かで、これなどは、後世の推定が、発掘調査によって否定されることになった一例と言えるでしょう。
 ところが一方で、こうした推定とは別に、史跡の東側にはいろいろな斎宮関係の伝承地名が残っているのです。
 例えば、現在の史跡の東端には、エンマ川が流れています。エンマ川は奈良時代末期に造成された斎宮の方格地割の東端道路の西側側溝で、この位置は実際に斎宮の官衙区画の東端に当たるのです。そして現在、この川沿いには、楠森神社跡という碑が立っています。『神都名勝誌』では、この社は「紅葉社、土俗に楠の森」と記され、由緒不明とされています。ところが『郷土史に見る斎宮』によると、この神社の境内には、かつて荒祭宮・高宮と呼ばれる祠があったのだそうです。そしてこの宮には、長元四年(一〇三一)年の斎王託宣の時に破却された社を移したものだという由来があるのです。『太神宮諸雑事記』によると、この時に斎宮頭藤原相通とその妻の古木古曾が神宮と称して祭っていた神は、寮外に持ち出されて焼かれたとされるのですが、それが寮外で祭られていたのがこれだというのです。この伝承で面白いのは、楠森神社跡がまさに方格地割の東の境界線上に位置していることです。「寮外で」というのにが方格地割より外で、という意味なら、かなり実態と符合している伝承ということになりましょう。

 そのもう少し南に「呉竹の藪」の碑があります。斎宮の別名「くれ竹の世々の都」にちなむ伝承地名のようです。『神都名勝誌』では呉竹の藪は絵馬堂の北に一町(一〇九m)ばかりとあり、その絵馬堂は道の北側で黒木の鳥居がある、としています。絵馬は「エンマ」の語源と見られます。この書き方では絵馬堂は参宮街道沿いにあったようですが、室町時代以来「斎宮絵馬の辻」として知られた名所でしたので、もともとは現在の参宮街道よりやや北にあったと考えられる道沿いにあったものと考えられます。これも方格地割の境界の「辻」が後世に生きていたことを示すものであり、呉竹の藪もそうした境界にあったものと考えられます。
 このように、方格地割東限にはいくつかの伝承地が見られるのですが、興味深いのは、なお東よりにもいくつかの伝承地が見られることです。
 例えば斎王の森の前の道を東に進み、エンマ川との交点からさらに200m余り東に行くと、丑寅(艮)神社跡という碑があります。これは斎宮の鬼門鎮めと見られる社の跡です。そして
その周辺には、有明池と御川池という、斎宮関係と伝承される池があったと伝えられています。このあたりは笹笛川(旧名笛川)と呼ばれる川沿いなのですが、河川改修で流れが大きく変わったこともあって、旧状はほとんどわからなくなっています。有明池の跡は旧地蔵院跡という寺跡の一角で、いささかややこしいですが、今は「斎宮絵馬の辻」から移された六地蔵の石幢(石灯籠に六体の地蔵を刻んだもの)が立っている所です。御川池は斎宮内院の池ということになりますが、その伝承地はさだかではありません。しかし「道より北五町ばかりにあり」としているので、現在確認されている内院、つまり竹神社周辺とは全く別の場所、ということになります。
 そしてこの笹笛川の流域には「どんど花」と地元で呼ぶ野花菖蒲の群落が見られます。現在では天然記念物となっており、『神都名勝誌』は斎宮寮苑園の遺跡かとしています。
 このように、史跡指定地外である方格地割の東外部にも、斎宮関係の伝承地は何箇所か見られるのです。
 ところで、斎宮の内院、つまり中心部分は、十世紀中ごろに今の竹神社を中心とした区画に集約されたものと考えられています。しかしこの区画は、平安時代末期に廃絶したのではないかと見られており、鎌倉時代の斎宮の中心部分はいまだにわかっていません。そして史跡の西側では、鎌倉時代の遺物は多く出土するものの、斎宮内院の一部さえも今の所見つかってはいません。斎末期の斎宮については、本当にわからない点が多く残されています。
 さて、丑寅神社に対応するかのように、斎宮の方格地割の西北にも、祠の跡があります。そう、斎王の森です。そして斎王の森の側までは斎宮の区画だったのですから、あるいは丑寅神社跡の近くまで、ある時期の斎宮、あるいは斎宮官人の住居などの斎宮に関係した施設が広がっていた可能性も捨てきれないのです。
 史跡の東側外部には、もっと多くの斎宮解明の手がかりが眠っているのかもしれません。

(主幹兼学芸員 榎村寛之)

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