第52話  斎宮百話 謎の祓川

 博物館の西側に、祓川(はらいがわ)という小川があります。史跡斎宮跡の西端を区切る川で、櫛田川(くしだがわ)から分かれて伊勢湾に注ぐ、十キロ余りの川です。ほとんど護岸工事もされていない、古い環境をよく残した川で、環境省が指定した「日本の湿地五百選」にも入っています。
 この川は、今から十年少し前、私が着任したころには、平安時代の永保二年(1082)の大洪水までは櫛田川の本流だったと、半ば常識的に語られていました。
 ところが信頼できる平安時代の古文書や日記、記録類の永保二年の記述には、櫛田川の流路が変わったという記述は見られないのです。
 というわけで、長くこの話の出典は不明のままだったのです。
 ところが、平成五年(1993)になって、櫛田川の歴史を集成した貴重な研究が現れました。それは三重県多気郡多気町在住で、多気町史編纂委員も勤められた郷土史家、海住春彌氏の『櫛田川と多気町文芸史』(第一法規出版)です。その中の「櫛田川本・支流逆転についての推考」という論によると、櫛田川の氾濫は承和十四年(847)、永保二年(1082)、保安二年(1121)の3回があったとされています。
 承和十四年の氾濫は、東寺領大国荘関係資料に見られるものです。『平安遺文』1巻242号の承平二年(932)の「伊勢太神宮司解案」という文書の中で論及されており、多気河が西北一里ばかり動いたとするものです。一見すると、今の祓川河道から櫛田川河道に移ったかのように見えますが、そう単純ではありません。
 保安二年の氾濫も、『平安遺文』5巻1950号文書、保安三年(1122)「の伊勢国大国荘田堵等解」に見られるものです。この文書では無双の洪水により、櫛田川流域で甚大な被害が出た、とあります。ただし海住氏はこの洪水で「廣五十余丈」ある大河の櫛田川が成立した、とされますが、この川幅は昔からの川幅を言っている可能性があり、私はこの記録は、氾濫により河川流路が動いたと明記しているわけではないと考えます。
 そして問題の永保二年(1082)の氾濫についてなのですが、これは松阪市意非多神社の由緒と、『神都名勝誌』という明治二十八年(1895)に刊行された伊勢地域の地誌に出てくるのです。『神都名勝誌』には、古文献や遺物など多くの引用があり、その櫛田川の項で、「神麻續神部脇田氏所蔵古記」なる文書による、として出てくるのでした。
 海住氏は二種類の史料にあることから、これを史実と考えておられますが、この二つの文書を海住氏の引用から比べると
 『神麻續神部脇田氏所蔵古記」
 「人皇第七十三代白河天皇御宇、永保二年壬戌七月十日」中、「伊勢の地大いに震ひ、同十三日」早朝より大に「風雨」、祓川流を変し、櫛田川へ流れ入り、「田地六百余町」を破壊し、社祠「十二」宇を流す
 『意多非神社由緒』
 「人皇第七十三代白河天皇御宇、永保二年壬戌七月十日」、終日「伊勢の地大いに震ひ、同十三日」甚だしき「風雨」あり、為に櫛田川西岸の堤塘大に決潰し、河水氾濫して、「田地六百余町」を潰し、神社「十二」社を流す
「 」の中は両者共通の文言です。ここまで一致しているとなると、この二つの史料の出自は同じものなのではないかと考えられます。つまり二種類の史料にあるとはいいにくいのです。さらに永保二年より新しい保安二年の洪水についての記録が全くないというのも、この記録が後世に作られた可能性を示すものとなります。このように、永保の流路変更は確実な史料によるものではないようなのです。なお、「大いに震い」、つまり地震の記録も確実な史料には見られません。
 このように、旧櫛田川と祓川の関係は必ずしも明確ではないのです。

 さらに複雑なのは、『延喜式』の太神宮式には、斎王が都から伊勢に来る時に、「飯野郡櫛田河」の浮橋を渡るとしているのに対し、斎宮式では、道中に祓をするのは「多気川」だとしていることです。900年代初頭において、多気川が櫛田川と呼ばれていたとすると、多気川が飯野郡にあることになり、ますますわからなくなります。多気川が今の祓川で、櫛田川とは別の川だとすると、櫛田川は『延喜式』段階で浮橋が必要な大河で、多気川は橋の必要ない狭い川だったことになります。
 このように櫛田川と祓川の関係には、まだまだわからないことが多いのです。ただ、海住氏は、祓川・櫛田川周辺の水田の下は川原石らしい石が地表から比較的浅い所で見られ、河床だったことがわかる、とされています。櫛田川の下流域が、古代以来広範な低湿地が広がる地域であったことは間違いないようです。おそらくいくつもの川が暴れ川になって、流路を何度も変えながら蛇行していたのでしょう。それが平安時代に固定されたのか、それ以後も記録に残らない河道の変化があったのか、よくわからない所です。
 そして条里で見ると、多気郡と飯野郡の郡境は、斎宮のある明野が原台地と櫛田川下流域の氾濫原の切れ目、ではないかと考えられます。また、前記承和十四年の洪水では、多気川が動いたことで、多気郡と飯野郡の水田の所属が混乱したということですので、多気川が多気郡と飯野郡の境界と認識されていたようです。とすれば少なくとも、9世紀頃には、「多気川」は明野が原台地と櫛田川下流域氾濫原の境界、今の祓川流路の近くを流れていた可能性があり、それから東側を「多気郡」と読んでいたと考えられるのです。
 さて、今の祓川の右岸、つまり斎宮寄りの低地には、北から「馬渡」「祓戸」「花園」という字が並んでいます。このうち史跡内の祓戸は斎王の禊に、花園は催馬楽の「花園」に関連しており、斎宮にゆかりの地名とされています。そして史跡に隣接する馬渡からは、平安前期の緑釉陶器などが発見された、斎宮関連遺跡と見られる「馬渡遺跡」が確認されています。どうやら平安時代には、このあたりは河底ではなかったようです。つまり、祓川にせよ、櫛田川にせよ、9世紀中ごろには、現在の祓川よりは西を流れていたようなのです。
 なお、筑波大学の三村翰弘氏は「伊勢斎宮の立地に関する考察」(筑波大学学術研究報22 2003年)で、江戸時代の絵図にも祓川を櫛田川より広く描くものがあり、江戸時代も祓川が櫛田川の本流で、天保頃に変わったという説を唱えておられますが、『伊勢参宮名所図会』に稲置川(祓川)として描かれた祓川は、それほど広い川ではありませんし、祓川を狭く描く絵図もあることから、それは考えにくいと思います。

(主査兼学芸員 榎村寛之)

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