第49話 斎宮百話 史料は生に限ります
秋の特別展『再現 延喜斎宮式』が無事に終りました。来ていただいた皆様、ありがとうございました。来られなかった皆様、来年こそお越し下さいね。
さて、今年の展覧会の大きな目玉展示は、平安時代から鎌倉時代にかけての文字資料でした。今回はその中でも、特に印象に残った資料から話題を提供。
今回の展示資料の中には、国宝に指定されている『延暦交替式』と『弘仁式断簡』がありました。いずれも平安時代中期に書かれた写本なのですが、感心するのは、その字が読みやすいこと。達筆なのに加えて、墨跡凛々とした楷書的な美しさなのです。
例えば、同時に展示したこれも国宝の『九条家本延喜式』と比べてみると、その特質はよくわかります。『九条家本延喜式』は比較的すらすらと書かれていて、やはり達筆なのですが、いささか読みにくい、つまり、名書家がさらさらと書いた、やや草書がかった雰囲気があり、馴れていないと読みにくくなっています。ところがこれら二点は、たとえ字が読めなくても、どんな字形なのかは、はっきりとわかる書き方をされているのです。
この違いはなんなのでしょう。そのヒントは『弘仁式』が『九条家本延喜式』として残されたこと、つまり『弘仁式』が廃棄された後、その裏に『延喜式』が書写された、という成立事情にあると思われるのです。そう、『弘仁式』は廃棄文書なのです。そして貴族の家に払い下げられ、その裏(紙背)が再活用されて『九条家延喜式』として再生したのなのです。同様に『交替式』は寺院に払い下げられ、仏教書(梵字などが書いてあるサンスクリット関係の本)の紙背文書として残されました。
それに対して、『九条家本延喜式』は、『弘仁式』や多くの公文書などの反故を集めてその裏に写したものですから、もともと公的な本ではなかった、ということになります。実際、その字は、『弘仁式』より平安時代後期の貴族の日記に近いように思えるのです.。しかも『九条家本延喜式』は、元々別系統の、平安末期~鎌倉初期の写本の集合体と見られており、その成立自体にも問題があるとされています。つまり九条家本は、日記と同様に、貴族の覚えとして作られた本の集合体だったという可能性があるのです。
さて、ではこの『弘仁式』、そして『交替式』はもともとどこで使われていたのでしょうか。もっとも可能性が高いのは、官司で使われていた「公文書」です。しかし、問題になるのは、「戸籍」や「正税帳」のような古代の公文書には全面に印を捺さなければならなかった、という規定があったことです。これら『弘仁式』や『交替式』の写本にはそうした印は見られません。もっとも『延喜式』や『弘仁式』などの法律書にそのような規定が適用されたという証拠もありません。あるいはこれらの書は、例えば太政官などに置かれた、今で言えば公文書ではなく、行政図書の類なのではないか、という推測がなりたちます。そう考えるとわかりやすいのは、『弘仁式』『交替式』がなぜ廃棄され、払い下げられたのか、ということです。これらは言わば行政事務用の「閲覧用図書」として作られたものであり、今の言葉で言えば消耗品として使われ、必要がなくなったので廃棄された、と理解できるのです。
そして、何故廃棄できるのか、という問題についても、こんな考えが可能になります。
「平安時代においては、三代の格や式などの編集物は、いわば保存用と事務用が作られ、どの程度の範囲かはわからないものの、事務用図書は主要な官司に常置されており、古くなると廃棄することができた。つまり、ある程度以上の高級官人ならば、比較的容易に主要な法律書は読むことができたのではないか。そのため、こうした本は丁寧な楷書で書かれ、読みやすくしていたのではないか。」
このような考えは、実物史料を見ていないとなかなか思い至るものではありません。
さて、最後に紙背文書についてもひとつ触れておきましょう。『弘仁式』残欠二巻の裏の『九条家本延喜式』は、それぞれ主税寮と式部省の式です。そしてこの残欠二巻は、いずれも主税式なのです。あるいは弘仁式を何らかの参考として残しておくために、わざわざ弘仁主税式の裏に延喜主税式を書写したものかもしれません。
博物館の利点に、史料を「物」として見ることができることがあります。文書などただの字のかたまりに過ぎないと思われがちですが、少し角度を変えると、古代の社会に迫ることもできる、そんなこともあるのです。だからやっぱり、史料は生に限ります。
(主査兼学芸員 榎村寛之)