第47話 斎宮と大中臣氏の歌人たち
今から1100年ほど昔、斎宮女御が斎王を務めていた頃、大中臣頼基(?-958)という人物が伊勢神宮の祭主を務めていました。
と書き出して、少し説明。
大中臣氏というのは、中臣鎌足などを生んだ大化前代以来の歴史のある中臣氏の子孫です。え、中臣鎌足は藤原鎌足になったんじゃないの、という貴方。その通りです。しかし、藤原氏になったのは鎌足の子、不比等の子孫だけで、他の中臣氏の人々は、すぐに中臣に戻ったのです。そして奈良時代末期に、中納言中臣清麻呂に「大中臣」の姓が与えられたのをきっかけに、中臣氏は大中臣氏に改姓していくのです。
さて、この大中臣氏は何しろ古い氏族ですから、色々な系統に分かれていました。そして中の上流位の貴族として、色々な役職に就く者がおりました。しかし一方で、中臣氏以来の氏族の本業である神祭り、おもに祝詞を読むことも手放してはいませんでした。例えば神祇官で祭祀の実務を行う人は中臣氏と忌部氏から出されることになっており、また天皇が即位して最初に行う収穫斎である大嘗祭では、中臣の代表者が「天神寿詞」という特殊な唱句を唱えることになっていたのです。斎宮にあった主神司にも、中臣氏の官人が確認されています。
こうした氏族の有力者の中で、平安時代初期頃から、氏長者、つまり氏全体を率いていく人物が、伊勢神宮の祭主、つまり神祇官における伊勢神宮の最高責任者になるという既得権を獲得していきます。しかしその地位は氏族の代表とでもいうべきものなので、親から子と続くことはあまりありませんでした。今日取り上げる頼基が出るまでは。
頼基は普段は中級貴族として都におり、重要な祭祀の時に伊勢に下るという、一般的な祭主の生活を送っていました。ところが彼にはもう一つの顔があったのです。それは歌人としての顔です。
大中臣頼基は歌人として優れ、歌人を近侍させて厚遇した宇多上皇に歌を求められ、行事などで歌を奉ることが多かったのです。そして彼の活動は、公的にも重要なものでした。彼が祭主の座についた天慶二年(939)頃は、平将門・藤原純友の乱が起こり、伊勢神宮など有力な寺社では反乱鎮撫の祈願が盛んに行われ、寺社が非常に注目を集めた時期なのです。頼基は最終的には従四位下にまで達し、この時期に頼基流の大中臣氏祭主の基盤が確立しました。
そして頼基の時期の斎王は、かの、醍醐天皇の皇孫・重明親王の娘の徽子女王、つまり若き日の斎宮女御だったのです。祭主は勅使として斎宮を訪れることもあったでしょうから、あるいは斎宮女御の歌人としての形成に、頼基が関わっていたのかもしれません。
そして頼基の後を継いだのが、その子の能宣(921-991)です。能宣の位は頼基を越えて、当時の大中臣氏としてはまず最高級の正四位上にまで上り、当時の歌人を代表する「梨壷の五人」に選ばれ、『後撰和歌集』の撰者にもなっています。
『百人一首』の
御垣守衛士の焚く火の夜は燃え 昼は消えつつものをこそ思へ
は、彼の歌で最も知られたものでしょう。
彼の歌には、この歌のように世俗的で軽妙なものが多いのですが、斎宮に関わる歌もあります。
おなじころ、伊勢の斎宮にて、やりみづに花のながれたるを、この花はなにの花のさけるぞ、たづねてきこえよとはべりしに
ながれくる花は桜の花なれど さしてさだぬむ色ぞうきたる
また、斎宮に同行して神宮に参った女官らしき女性との恋歌のやりとりも、『三十六人集』の「能宣集」に見られます。
この親子はいずれも三十六歌仙に入っており、当時の歌壇でもその地歩がうかがえます。
しかし、斎宮との関係でいうとむしろ重要なのは、その子の大中臣輔親でしょう。
輔親(954-1038)は、父、祖父の事跡を受け、さらに歌人としての家柄を高め、関白藤原頼通とつながりが深く、ついに正三位にまで上ったという人物で、京の自宅を天橋立に模して風流三昧の生活をしたと伝えられます。
彼も斎宮についての歌をいくつか残しているのですが、歌の良し悪しはともかく、最も重要なのは長元四年(1031)年六月に起こった斎王託宣事件の時に、神宮荒祭宮が憑依した斎王が輔親を呼びつけて盃をとらせて詠んだ歌
盃にさやけき影のみえぬれば ちりの恐れはあらじとぞしれ
への返歌
おほぢ父うまご輔親三代までに 戴きまつるすべらおほむ神
でしょう。
この時、斎王はにわかな嵐の荒れ狂う内宮で突然憑依状態になり、天皇や朝廷の伊勢神宮をないがしろにする態度や、斎宮頭の不敬などを糾弾したのです。しかしどうやら、輔親は非難されていないらしい。むしろ、斎王の歌では、神の祟りはお前にはないぞよと言われており、そして輔親は祖父・父・孫である自分まで三代の功績を返歌で顕彰しているのです。
時の斎王は具平親王の娘セン子(女偏に專、博物館では「よしこ」と仮に読む)女王で、村上天皇の孫にあたります。そして彼女の同母兄の源師房は藤原頼通の猶子(養子待遇)になっており、後に、源氏といえども師房の子孫は摂関の一族と言われるほどに摂関家と関係が深かったのです。そして何より、セン子自体が退任帰京の後、頼通の弟の教通の妻になっています。
このように輔親とセン子は、斎王と祭主としてだけではなく、プライベートでも摂関家を介して強く結びついていたのです。なお、輔親は「中古三十六歌仙」に入っています。
そして最後に、この輔親の娘が百人一首に見られる「伊勢大輔」です。
いにしえの奈良の都の八重桜 今日九重に匂ひぬるかな
大中臣四代の歌人たちの最後を飾ったのは、紫式部と同僚だった、この女流歌人でした。
(主査兼学芸員 榎村寛之)