第46話 平安時代の遊びが現代に…??
先日仕事で山形県に行って、発掘中の平安時代初期の遺跡をいくつか見てきました。斎宮あたりでは9世紀になると掘立柱建物が普通なのに、むこうでは竪穴住居がまだ残っているのですね。
その中の川前2遺跡という所では、ある建物の床面で、名刺大より一回り小さいくらいの川原石がまとまって出土していました。、きれいなつるつるの川原石が10個ほど、ほぼ同じ所からあたかも意識的にばらまいたような形で発見されたのです。直感的に思いましたね。「石名取りじゃない?」。
源俊頼という歌人が平安時代後期に著した『散木奇歌集』という歌集があります。そこに斎宮で「いしなどりの石あはせ」つまり「石名取りの石合わせ」という遊びが行われたという記録が見られます。
その原文は
ちいさき草子のいしなどりの石のおほきさなるをつくりて、十の石にひとつづつかき侍りける
というものです。
なかなか理解しにくいのですが、どうやら、石名取りが行われたのではなく、石名取りに使う石くらいの大きさの草子をつくって、十の草子に一つずつ歌を書いて歌合せをしたというものらしいのです。小石の大きさの紙に歌を書くというのも変なので、草子に書いて折りたたんだのか、くしゃくしゃと丸めたのか、という所でしょうか。
それにしても、斎宮の人々にとっては、まねごとの歌合せをするほど石名取りが身近な遊びだったことがわかります。
さて、それではこの石名取りとはどういう遊びだったのでしょうか。
『古事類苑』には、十個の石をばらまいて、一つを上に放り上げ、落ちてくるまでに拾い集めて数を競う遊びであると記しています。
ところが、『古事類苑』が引用する江戸時代終わり頃の雑学書『守貞漫稿(近世風俗志とも)』には、何人かがする遊びで、最初は石が落ちてくるまでに石一つを取り、全員が取れれば、次は二つを取る、という風に数を増やし、七つになれば終り、としています。ここでは単純に数を競うのではなく、言わば少しずつハードルを上げていくゲームとしています。
そうか、江戸時代末期になると、かなり複雑になっていたのね、というように読めるのですが、どうもそれだけではないのです。
それより約百年ほど前の、賀茂真淵の『県居雑録』に、石名取りについてふれた所があり、そこには
右の絵に女房二人向ひゐて、一人の手の甲へ石ふたつみつのせ、下にも多く散りてあり、しかれば、今の童のいふたんまとりといふものなり。
とあるのです。つまり、この文章は古い絵の解説で、そこには女房二人が向かい合い、一人が小石を手の甲に乗せ、二人の間には小石が散らばっている、という情景が描かれているらしいのです。しかし、手の甲に石を乗せる、というのは他の文献では見られません、一体これは何だろう、と考えていると、意外な所から事実が判明してきました。
皆さんはチェーリングという遊びをご存じでしょうか。石名取りの話をしていると、本館の天野秀昭学芸員が、「それはチェーリングだ」と言い出したのです。
インターネットで調べてみると、チェーリングとは色々な色のついたプラスチック製の指輪大リングをつなぎ合わせたチェーンを丸めたもの、具体的には一つの輪っかにいくつもの輪っかを噛みあわせて作った玉のようなもので、それを使って石名取りと同じようにして遊んだというのです。
私もこのきれいな輪っかのかたまりは見たことがありますが、使い方は知りませんでした。インターネットで確認した所によると、チェーリングを五つほど地面にまいて、一つを放り上げている間に最初は一つ、次は二つを拾うという、『守貞漫稿』の「石名取り」の記述と全く一致する遊び方のようです。そして、数取りが終ると、全部を放り上げて、上から掴むようにして空中で取り、さらに放り上げて「手の甲」で受け、一つでも残っていればいいらしいのです。
「県居雑録」にいう手の甲に石を乗せるというのは、この情景にそっくりではありませんか。つまり、賀茂真淵の見た絵に描かれていた「石名取り」は、一つ二つと取っていった後、まとめて放り上げた時の情景を描いていた可能性が高いのです。とすれば、この絵がいつのころのものかは分からないのですが、おそらく江戸時代前期以前には、一つ二つと石を取り、全部取るとまとめて放って手の甲で受ける、といった形ができていたのはたしかなようです。そしてこの形の遊びが、石からチェーリングへと展開していたようなのです。
さて、このチェーリングについて天野学芸員が館職員に聞き取りをしたところ、1960年代の中頃の生まれの人は、小学生当時流行っていたと言いました。つまり1970年代の前半頃に流行った遊びらしい。あるいはその頃にチェーリングが大手玩具メーカーあたりから売り出されたのかもしれません(ちなみにネットで探すと、近年大阪梅田の大型おもちゃ売り場キ○ィラ○ドでチェーリングを買った、という書き込みがありました、ひょっとしたら今でも売ってるのかも…)。ところが1970年代生まれくらいになると、この遊びを全く知らないといいます。どうやら時期限定の流行だったらしいのです。さらに三重県では、明和町より北では遊んだ人が多いのに対し、二見町では遊んだ記憶がない、という証言が出てきたのです。
さらに驚いたことに、1950年代から60年代初頭の生まれの人(ちなみに私=1959年生、より少し下の岐阜県各務原市育ちの体験館スタッフも、形は知っているけど遊び方は知らない派です)の中には、チェーリングじゃなくてサイコロで遊んだ(鳥羽市答志島)などという声もあり、チェーリングより古い時期の証言もありました。そしてついに、「石で遊んだ」という声が…。
館の総務グループのN女史は、幼い頃、碁石大の小石を使って同じ遊びをしていたというのです。遊びの名は「ごいし」、おそらく五つの石を使うことから「五石」といったのではないか、ということです。聡明な彼女はかなり克明にルールも覚えておられ、それはインターネットで見たチェーリングとほぼ同じものでした。そして彼女の生まれ育ちは、斎宮に程近い所なのです。
調べてみると、石名取りは「石なご」「小石」(「ごいし」の語源はこれかもしれません)など色々な名前で呼ばれながら、戦前までは全国で遊ばれていたようです。ところが、斎宮のある明和町では、平安時代に斎王や斎宮の女官が遊んで以来?、ついこの間まで受け継がれていた…とは単純には言いきれませんが、平安のお姫様と現代の女の子が同じ遊びをしていたというのは、何とも不思議な話ではありませんか。
ところがここでもう一人、宇河雅之学芸員が、それとそっくりな遊びを韓国で見たと言い出したのです。さて、この遊びはどこまで展開するのやら、時代を超えてあたかもチェーリングのように縦横につながる「石名取りの輪」、興味はまだまだ尽きないようです。
(主査兼学芸員 榎村寛之)