第45話  平安時代の長命さん

 つい先だって、坪内操さんという女性が亡くなりました。享年102才とか。大変なお年です。100才以上の人口が二万人を超えたという長寿社会では、驚くほど、というのはいささか躊躇されますが、長生きであることには間違いありません。
 坪内さんの夫は、文豪坪内逍遙の養子、坪内正行氏。娘は女優の、というより私などの世代では、NHK連想ゲームの女性チームの解答者を長く務められた人として記憶に深い坪内ミキ子さんです。
 そしてこの人にはもうひとつの顔がありました。元・宝塚少女歌劇の娘役スター、雲井浪子さん。つまり今の宝塚歌劇団の第一期生だった方なのです。
 正直このニュースには驚きました。宝塚は来年90周年を迎えるのです。「百人一首のスター」がまだ生きておられたとは!。
 宝塚草創期、最初の百人の生徒(宝塚歌劇団は、宝塚音楽学校の研究科生徒が舞台に立つ、という体裁を採る劇団です。そのため、劇団員はまず宝塚音楽学校に入学し、予科・本科の二年間舞台芸術の勉強をします。そして初舞台に立つと、「研究科一年の生徒〔研一生と略す〕」と言われるようになります。)の芸名は、百人一首から採って創設者である小林一三が自ら付けたそうです。「霧立のぼる(村雨の露もまだ干ぬ槙の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ)」「有馬稲子(有馬山いなの笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはせん 現・女優の有馬稲子さんの母君)」「天津乙女(天津風雲の通い路吹き閉じよ乙女の姿しばし留めむ)」「小夜福子(忘らはで寝なましものを小夜ふけて傾くまでの月を見しかな)」「瀧川末子(瀬をはやみ岩に堰かるる瀧川の割れても末にあはんとぞ思ふ お孫さんが今、同じ名前で宝塚にいます)」などです。そして雲井浪子は「わたの原漕ぎ出でてみればひさかたの雲井にまがふ沖つ白波」から採られた芸名なのです。
 そして注意しておきたいのは、この時代の宝塚には今と違って、阪神間を中心に男性の高校生(旧制)・大学生ファンが多かったことです。まだタカラジェンヌという言葉もなかった頃、彼らは宝塚の生徒を気取って「エンデメッチェン(つまり阪急電車の終点〔エンデ〕の宝塚にいるお嬢さん〔メッチェン〕というドイツ語。あるいは当時、阪急の今津線沿いに宝塚の寮があり、寮と宝塚の往復に使う電車に、生徒専用車両があり、それが最後尾だったから、とも)」と呼んでいました。
 というわけで、当時の宝塚で人気があったのは今のように男役ではなく、娘役だったのです。宝塚が発足した1914年に、雲井浪子は13才で初舞台を踏みました。そして瞬く間にスターの座に踊り出たものの、わずか19才で、当時劇団の文芸部、つまり座付作者をしていた坪内正行氏と結婚して引退し、それからは舞台からは全く離れ、宝塚さえほとんど見ることも無く、家庭人として隠遁生活を送っていたといいます。まさに1910年代の、その時代にだけ輝いていたアイドルだったのです。
 つまり、世間一般から見ると、彼女の19才から102才までは「余生」に見えてしまうわけです。何と長い余生!。
 で、これがどうして斎宮百話なんだ、と、お読みの皆様のイライラが頂点に達しつつある頃と思いますので、そろそろ本題。
 平安時代の女性の平均寿命は短かった、これは正解。
 平安時代の女性はみんな早死にだった、これは不正解。

 平安時代の貴族や皇族女性の没年齢を見ると、意外に長生きの人が多いことがわかります。例えば『栄華物語』の著者、赤染衛門(あかぞめえもん)は80才以上まで現役。紫式部は30代で亡くなったらしいけど、娘の大弐三位(だいにのさんみ)は80才前までは現役、三十六歌仙の一人、中務(なかつかさ)も80才位までは現役、古いところでは、桓武天皇の秘書官長的な役割で、当時の政界にも影響力を持っていた百済王明信(くだらのこにきしみょうしん)が79才。そして極めつけは、藤原道長の妻の源倫子(みなもとのりんし・ともこ)が90才、その娘の上東門院藤原彰子(じょうとうもんいんふじわらのあきこ・しょうし)が87才、という具合です。
 つまり貴族のように、食べられないということはない身分なら、もともと健康でいくつかの要因をクリアできさえすれば、十分に長生きができたのです。短命の人の第一条件は子供の間に死ぬこと。子供の死亡率の高さは今も発展途上国の大きな問題です。第二条件は出産の時に死ぬこと。第三の条件は伝染病にかかること。それがなければ比較的長生きは可能だったのですね。
 さて、で斎王の場合はどうか。
 じつは割合にいるのです。長生きの斎王。
 生没年がはっきり分かる人が少ないので、単純には言えませんが、斎王を辞してから亡くなるまでの長さを比べてみると
  嵯峨朝の斎王  仁子内親王  66年
  後三条朝の斎王 俊子内親王  60年
  淳和朝の斎王  氏子内親王  58年
  後白河朝の斎王 亮子内親王  58年
  光仁朝の斎王  酒人内親王  54年
  平城朝の斎王  大原内親王  54年
 で、わかっている人で平均すると約28年という結果になりました。20才位で辞したら48才くらいが平均という所でしょうか。ただし分布偏差を見ると面白いことがわかります。
 斎王制度折返し時期の西暦1000年を境に卜定で分けてみるとこうなるのです。 
       1年~ 10年~ 20年~ 30年~ 40年~ 50年~ 60年~
1000年以前 2(人)2    5    4    2   3    1
1000年以降 4   6    2    2    2   1    1
 どうも平安前期の方が長生きのように見えます。平安時代前半の方が規範やタブーに縛られることが少なく、おおらかに生きていたのでしょうか?
 それはともかく、残念なのは、最も長い仁子内親王についての史料がほとんど残っていないことです。彼女は811年から823まで、12年の長きにわたって斎王を務めており、その頃がいわば斎宮の全盛期なのです。彼女が没したのは889年、すでに斎王制度は一つの曲がり角にありました。父の嵯峨天皇の時代から、弟の仁明天皇の孫にあたる宇多天皇の時代まで、その間には仁明のひ孫の陽成天皇までいました。彼女の目に移った斎宮と平安京の推移は、どのようなものだったのでしょう。

(主査兼学芸員 榎村寛之)

ページのトップへ戻る