第42話 斎宮の「怪談」?
えーと、世間はようやく夏です。この連載が掲載されるころには秋風が吹いているかもわかりませんが(^ ^;)。というわけで、今回は斎宮にまつわる怪談話を一つ。
…平安時代も終わりに近づく、延久四年初冬の頃のある月夜、斎宮寮の長官の随身(従者)の藤原仲季という男が、供の者に松明を持たせて、斎宮内院のまわりを逍遥していた。
と、何やら慌てた跫(あしおと)とともに、一つの灯りが近寄ってくる。供の者が照らすと、怯えた男の顔が浮かび上がった。かなりの大男だ。炎に照らされた髭面には覚えがある。門部の、名は何と言ったか…しかし妙に怯えている。
「これは仲季様…」
「何事だ。騒々しい、内院の回りであるぞ。場所柄を わきまえんか」
「あの…何かいるのです…」
「何かいる?この真夜中に人がいるなら誰何して、妖 しければ拘束するのがそなたたちの役目であろ
う。」
「そ、それが…何やらさっぱり…」
「ええい、話にならぬわ、とくとく案内せい。」
仲季がなぜこんなに高飛車なのかについては、少し説明がいる。この時代、国司などの受領に任命された下級貴族は、国司の経験があって事務に長けているが、今は失業中の同僚や、武芸に自信のある舎人などを従者にして、事務や警護を任せるのが常識であった。斎宮寮の頭も受領級の貴族だから、こうした身分の高い(といっても下級貴族だが)従者を何人も連れてきている。彼らはいわば私人だが寮頭クラスの身分で、斎宮寮の官人序列には入らないので、下級官人たちにはかなり横柄になっていたのである。仲季もそんな一人で、今は無官の散位、つまり仕事の無い下級貴族だが、父は大和守で、門部などよりは遥かに身分が高い。しかも腕に自信があったので、寮頭の警護役も買って出ていたのであった。
南門のあたりまで来ると、先に立った門部の足がひた、と停まった。
「どうした」
「あ、あれを…」
指差す方を見ると、何か白い物がふわふわとさ迷っているかのようである。大きさは小柄な大人くらいだろうか。煙のようにも見えないではないが、白い布が揺れているか、あるいは白髪をざんばらにした人影のようにも見える。初冬の寒々とした月明かりの中にただよう姿に、仲季もさすがにぞっとしたが、ここで弱味を見せれば、臆病風に吹かれたと噂されるに決まっている。
「ええい、何を怯える、弓を貸せいっ!」
門部は武官なので弓矢は常に携帯している。半ばむりやりに弓矢取り上げ、狙いをつけて近寄っていく。ぶるぶる震えているのが自分でもわかるが、相手はこちらに向ってくる気配がない。二丈(6m)ばかりまで近づいて、思いきって射放った。
虚空に「ぎゃっ」という悲鳴が響いて…白い物が倒れる。
「はは、もろいものよ。」
語尾の震えを隠して松明で照らす。それは一人の老婆であった。
「こ…これは…」
「仲季様…いったい…」
顔を見合す二人の前で倒れていた老婆が突然立ちあがる。いや、ふわりと浮き上がったようだ。その姿はみるみる白い光に包まれ、しだいに獣の形になっていく。その獣は二人に向ってくわっと耳まで裂けた口を開き、真っ赤な目がらんらんと輝き、二人を強く射すくめた。
「あれえっ!!」
…やがて野火が鎮まるように光は消えた。その跡に残っていたのは、一頭の白いキツネのむくろ。
しかし、仲季と門部がそれに気づくことはなかった。二人ともとっくに、白目をむいて気絶していたからである。
『百練抄』という鎌倉時代末期に作られた歴史書があります。その延久四年(1072)十二月七日条に、藤原仲季という人が土佐の国に流罪になったという記事が見られます。理由は、斎宮のあたりで「白専女」を射殺したから。
また、同じ『百練抄』の治承二年(1178)年五月十三日条によると、初斎院のために斎王がいた宮中斎宮の御在所の近辺で、院の下北面の下臈の源競(みなもとのきそう)が「白専女」を射殺したという事件がありました。そして翌々月の閏六月五日に、仗議、つまり貴族会議があって、競の罪名が議題になりました。
この事件については、『山槐記』(内大臣中山〔藤原〕忠親の日記、忠親は源平合戦頃の公卿で、藤原頼通の五代の孫)にこの会議の詳しい記事があります。それによると、
実際に手を下したのは宿直していた源競の郎党、つまり部下の伴武道という人で、初斎院別当の前相模守隆盛の言上により、外記に前例を調べさせると、この延久四年の前例が出てきたのです。その記録によると、犯人の藤原仲季は大和守成資の三男で、射殺した「白専女」は「霊狐」なのだそうです。また、もう一例として、天承二年(1132)に斎宮寮内院の「中御殿」の前で専女の子が直る、つまり死んでいた、ということが挙げられています。
で、この会議では、宮殿で内に向って矢を射ると徒一年とか、杖一百(百叩きですね)とか、外に向ってなら杖八十とか、「白専」は神霊にほかならないから殺した者は斬刑だ、とかいろいろ議論があったらしいのですが、結局、二十四日になって、伴武道は佐渡国に流罪になりました。
さて、もともとこの「専女」とは、もともとは老女の意味だそうです。とすれば、白専女は、白い老女という意味かもしれません。しかし一方、十一世紀はじめごろにできた『新猿楽記』には「伊賀専(いがのとうめ)」という言葉が「キツネ」の意味で使われていますし、『山槐記』には「霊狐」と明記しているのですから、やはりキツネのようです。また、天承二年の「専女」は「白」ではないので、ただのキツネのことも「専女」と呼んでいたことがわかります。
というわけで、十二世紀くらいには、斎宮では狐が「専女」と呼ばれて大事にされていたようです。何しろ殺したら死刑になったかもしれない、というのですから、真面目に神様と崇められていた、ということなのでしょう。しかし、『延喜斎宮式』には斎宮とキツネを関係づけるような記述は一切ありません。つまり斎宮とキツネの関係はそれほど古いこととは思えないのです。そして、二回もキツネを射殺した記事が出てくるのですから、「犯人」にされた藤原仲季や伴武道は、「白専女」を見たときに、神のキツネだとは思わず、妖怪変化のたぐいだと思ったのではないでしょうか。
とくに伴武道のような「北面の武士」は、宮廷に出た怪異を鎮めるのが仕事の一つでしたから、おそらく武道としては化物退治をしたつもりだったのでしょう。何しろ彼の主人の渡辺競は、摂津国の難波に本拠を置く渡辺党の武士で、その祖先は羅生門で鬼の腕を斬り、源頼光に従って酒呑童子を退治したといわれる渡辺綱、そして渡辺党は代々、頼光の子孫に仕え、この事件の時の主人は、鵺(ヌエ)退治で有名な源頼政だったのですから、まさに平安時代のゴーストバスターズの一人だったのです。とすれば、「白専女」は、彼らお化け退治のプロが見ても、「化物」との区別がつかなかったということになります。
ならば、斎宮では、キツネは、平安時代後期をそれほどさかのぼらない時期に、化物から神様に「昇格」したのかもしれません。それについて、興味深い資料が見られますので、ご紹介しておきます。
長元四年(1031)の有名な「長元の託宣」についての『小右記』の記述の中で、斎王に憑いた「荒祭宮の神」は、斎宮寮長官の藤原相通とその妻の藤原古木(小忌)古曾が「連日連夜、神楽狂乱して、京洛の中で巫覡が狐を祭るように、枉(ま)げて大神宮と定めて」祭っていることに激怒しているのです。つまりこの資料では、「狐を祭る」のは愚かな民衆の所業であり、公的な機関でそれに類するようなことは嫌悪されているのですね。この時代にはたして斎宮で狐が崇められるでしょうか。1031年には斎宮では狐は崇められていなかったらしいのです。
しかし一方で、京内で民衆が狐を祭ることが例として引かれているのは、この当時に狐を祭ることが、少なくとも民衆の間では、ある程度一般的になっていたことを示しているようです。
とすれば、十一世紀の1031年から1072年の間に斎宮では、それまで雑信仰的に見られていたキツネの祭が公に認められるようになり、「妖狐」は「霊狐」に昇格し、キツネが崇められるようになったのではないか、と考えられるのです。
しかしそれにしても、白い狐が斎王の寝殿の回りをふわりふわり、というのはなかなか不気味な光景ですよね。仲季や武道でなくても、思わず矢を射てしまいそうではあります。
(主査兼学芸員 榎村寛之)