第41話 斎宮の「闇」
今と昔を比べれば、いちばん違うのは「夜の暗さ」だといいます。街灯ができる以前、つまり電気・ガス燈以前の夜の街灯りといえば「常夜燈」の石灯籠くらい。石灯籠にした所で、寺院などでは奈良時代以来使われてはいるけれど、街道の灯篭などになると江戸時代以降がほとんど。つまり室町時代以前の暗さとなるとさらに暗い、ということになりますね。
鬼火や狐火のような、夜に現れる火が妖怪とか幽霊とされたのも、夜の闇がいかに深く、その中での明かりがいかに異常なものだったか、という意識の現れでしょう。
鼻をつままれてもわからない、という言い方があるように、深い闇では、そこに誰がいるのか、なんて本当にわからなくなることがあるのです。
え、何でそれがわかるのか、って。
斎宮跡は「暗い」のですよ。
史跡内は遺跡保存のため、新しく電柱を立てる場合でもいろいろな制限が付きます。そのため、斎宮駅北部の芝生広場「斎宮ロマン広場」には街灯を設置しませんでした。そのあたりを日がとっぷり暮れてから歩くと、懐中電灯片手にウォーキングをしているご夫婦などに出会うこともあります。宙に浮く光とその後のおぼろな影というのは、一瞬ビクッとする瞬間ではあります。
この広場ができる以前となると…こんなことがありました。
数年前の冬のこと。日が暮れた後の夜道を博物館から斎宮駅に歩く帰宅の途次、ふと気がつくと、後からついてくる人影がある。明かりといえば数百m先の斎宮駅のみ。後を振り返ると、百m以上離れた道の街灯がちらちらと見えるだけ、その闇の中を輪郭がわかる程度の人影。何となく不気味になって足を進めると、なぜか相手の速度も速くなったようで、ぴったりついてきます。さらに歩を速めると、また速くなる。まるで影が身体から離れてついて来るような不思議な情景の中を、追いかけっこのようにして約五分間の後、斎宮の街に飛びこむと、後から来たのは総務課(当時)職員のA君。少し後に博物館を出たものの、日頃は車通勤で夜道を歩くのは始めてなので心細く、前を歩いている人がいたので追いつこうと必死に歩いていた、ということで大笑いになりました。
さらに博物館ができる以前となると…本当に暗かった。曇の日に夜道を歩くと、自分の足元すらほとんどわからないというのがあたり前だったのです。
博物館ができる直前、台風が来た大雨の夜に、当時いちばん明るかった道を自転車で走ったことがありました。水でスリップして自転車のライトも思い出したようにちらちらしかつかない中、50mに一つ、蛍光灯程度の街灯しかない一車線半程度の道路(当時の情景、今の「いつきのみや歴史体験館」の前の道です)を、レインコートに身を包んで近鉄斎宮駅に向って走っていると、左右の田畑(当時)には水が漬いてその中を一本の道が闇の中へと消えていく。わずかな光の中に浮かぶその姿は、暗い海の真中を一本の道が通っているよう。狐に化かされるのはこういう時だな、思ったことを鮮やかに記憶しています。
いちばん明るい道でもそんな感じだったのが十五年前。これが平安時代となると、どれくらい暗かったのか。
「更級日記」という女性の自叙伝があります。作者は菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)の名でしか伝わっていません。その中に、友人(源資通という貴族と考えられています)が旧暦十二月の斎宮を訪ねた思い出話の聞書きを記した所があります。それによると、
…夜が明ければ帰京しようとしている時、ここのところ雪が降り積もっているのに、月が明々と照った、という不思議な雲行きの深夜、旅の空の心細さをかかえつつ、一人の老女と語り合った。女は五代の斎王に仕えた、神さびて古めいた雰囲気の人で、その、泣きを交えた昔語りは「この世のことともおぼえず」…という何とも不思議な体験をしたというのです。
雪の夜に月が出る、という体験は斎宮ではまだありません。しかし、一月や二月の冬に、月夜の道を歩くことはしばしばあります。そのな時、資通が見た光景の名残りは今でも少し残っているな、と思うわけです。
お勧めはしませんが…、冬の夜の5時まで博物館にいて、斎宮駅まで歩くと、この雰囲気の一端を味わうことができます。五人一組以上、懐中電灯と携帯電話をお持ちの上、道を知ってる人がいることが条件でしょうか。博物館の回りには狸はいるし、狐もいるかもしれない、いやこのごろは人間がいちばん怖いかな。
(主査兼学芸員 榎村寛之)