第40話  40回記念??斎宮版「その時歴史は動いた、かな?」(1)

 ナレーター
-古代以来、連綿と続き、国家の平安を祈った「伊勢斎王」、その大きな転機となった事件が、偉大な物語の完成に結びついていった-。
(司会 アナウンサー 全身立ち姿)
 みなさん、こんにちは。本日の「その時」は貞元二年、九七七年の九月十六日です。この日がどういう日か、というと、斎宮女御徽子女王が、娘の斎王規子内親王とともに、伊勢に旅だった日なのです。
 斎王と言いますのは、伊勢神宮に仕えるため、都から天皇の代わりに送られた皇族女性のことです。この制度の創始は、『日本書紀』では伊勢神宮の鎮座伝説とともにあるのですが、確かな所では、七世紀末期、天武天皇の娘、大来皇女が実在の確実な最初の斎王とされています。
 十世紀初頭の『延喜式』という法律書には、斎王は天皇が即位するとすぐに選び、天皇の交替や身内の不幸などで交替するとしています。
 その歴史は、南北朝時代、一三三四年まで続き、七十人に余る斎王が歴史上に名を残しているのですが、本日取り上げます徽子女王は、十世紀の人で、醍醐天皇の皇子、重明親王の娘として生まれ、朱雀天皇の時代の斎王だった人物です。
 ナレーター(背景画像に竹林・平安神宮など『斎王群行』から)
「徽子女王は延喜六年、九二九年に生まれ、九三六年、八才で斎王となった。斎王は、宮中の初斎院・嵯峨野の野宮での世間から離れた暮らしを経て伊勢に向う。伊勢に旅だったのは天慶元年、九三八年の九月のことであった」
(アナウンサー、上半身のみアップもすでに座っている)
「さて、本日のお客様です。斎宮についての専門家でいらっしゃいます、斎宮歴史博物館学芸員の井枝邨さん(^^;)です。(ゲストの井枝邨学芸員の方に半身を向け、カメラ引いて二人が写る)よろしくお願いいたします。さて井枝邨さん、この伊勢への旅立ちの儀式は異例だったんですって?」
学芸員(ズームアップ)
「異例、というほどのことではないのですが、斎王が都を離れる時には「別れのお櫛」といいまして、天皇から手ずからツゲの小櫛を額に挿されるという儀式があったのですが、この時朱雀天皇は物忌で、出てきていないんです。」
(ここで、『斎王群行』より「別れの櫛」の場面の画像) 
 アナウンサー(上半身アップ、学芸員の方にやや向いている)
「普通の別れの儀式では、今のように、天皇が手ずから櫛を挿します。いかにも斎王が天皇の分身であることを象徴するような儀式なのですが、朱雀天皇には出てこられないほどの事情があったのでしょうか」
学芸員(アナウンサーの方を向きつつカメラを意識した目線)
「朱雀天皇という人は、名君といわれた醍醐天皇の息子なんですが、お父さんは宮中に落雷があって、その時のショックが原因で亡くなります。この事件は菅原道真の祟りと考えられました。当時宮中では、醍醐天皇が無実の菅原道真を九州に流したことから、道真の祟りを非常に畏れていたのですね。
 もともと、道真の祟りを恐れて、新帝の朱雀は、極力外に出さないように育てられていたのです。そんなこともあって、なかなか公式の場には出てこなかったようですね。」
ナレーター(背景に戦乱の画像:この時代、菅原道真の怨霊は、社会のすみずみまで広がっていた。徽子女王は七年間斎王にあった時期、関東にあって平将門が反乱の旗を上げた。その時彼は、八幡神から新王に任ぜられ、その文書は菅原道真の霊が起草したと称したのである。これに対して朝廷は、伊勢神宮に反乱鎮圧の祈願を行なった。承平・天慶の乱は、また神々の戦いともなったのである。)
 アナウンサー(カメラの方に向きなおって)
「さて、こうして伊勢に赴いた徽子女王ですが、その伊勢での生活はほとんどわかっていません。しかし注目できるのは、この時に平将門・藤原純友が東西で反乱を起した「天慶の乱」が起こっていることです。この間の緊張の中で、徽子女王も幼いながら、斎王としての責任を感じ、自覚を培っていたのではないかと思われます。また、彼女は、後に歌人として、あるいは琴の名手として名を馳せた人ですので、そうした素養はこの時期に培われたものと考えられます。
 そして九四五年、母の死によって、斎王を解任されることになります。」

 ナレーター(背景は近長谷寺の風景と近長谷寺資材帳)
「伊勢の国、近長谷寺、この寺に伝わる平安時代の資材帳には、徽子女王が帰京に際し、白玉一丸を観世音菩薩に奉納していったという記録が見られる。
 都に帰ったのち、九四八年に彼女に大きな転機が訪れる。村上天皇との結婚である。」
 アナウンサー(カメラの方を向いて)
「徽子女王は村上天皇の女御になりました。女御というのは、天皇の後宮に入った皇族や摂関家出身の姫に与えられる称号です。彼女はその後、一男一女を生みますが、皇子は夭折し、娘の規子内親王だけが成長しました。
(背景、佐竹本三十六歌仙絵巻の斎宮女御に変わる)
 村上天皇には沢山のお妃がいたのですが、中でも徽子は、天皇との和歌の贈答に優れた才能を見せ、多くの歌人との親交もあり、いくつかの歌合せの主催者にもなり、当時の歌壇の、いわば中心人物の一人となりました。(ここで画面に斎宮女御と村上天皇の贈答歌が出る)しかし、皇子がいないことと、後ろ盾になっていた父の重明親王が亡くなったことなどから、二人の間には次第に秋風が吹き始めます。」
 ナレーター(背景 村上天皇画像)
 「九六七年、村上天皇が亡くなる。徽子は未亡人となったが、落飾せず、娘の規子と暮していたようである。ところが、その頃斎宮で大事件が起こっていた。」
 アナウンサー(学芸員に向って)
 「斎宮で起こった大事件とは何なのですか?」
 学芸員(アナウンサーに向って)
 実は、九七四年に斎王が斎宮で亡くなったのです。斎王は多くは十代の少女で、二十歳頃には帰京しますので、斎宮で現役の斎王が亡くなるというのは七世紀以来始めてのことだったんですね。この事件についてはほとんど記録が残っていないのですが、当時のことですから、これは伊勢神宮の神の祟りであり、さらに悪いことが起こる前兆と認識されたと考えられます。
 ナレーター(背景 隆子女王の墓)
 斎宮で亡くなったのは、醍醐天皇の孫にあたる隆子女王、徽子女王の従姉妹にあたる女王であった。伊勢の大神の怒りを静めるには、より身分の高い内親王の斎王が必要になる、そこで白羽の矢が立ったのは、徽子女王の娘、規子内親王であった。

(主査兼学芸員 榎村寛之)

ページのトップへ戻る