第30話 誰が書いたの?ひらかな墨書土器
博物館の展示室に、ひらかなを記した墨書土器が展示されています。何だ、ひらかなか、漢字より簡単やんか、と思われがちですが、ひらかなを土器に書くというのは、実に珍しいことなのです。というのも。
墨で字を書いた土器が非常に多くなるのは、七世紀末期おもに藤原京ができて以降のことです。それ以前の、例えば飛鳥や難波の古い都の跡では、墨書土器はほとんど-まず、といっていいくらい見つかりません。それ以前となると、大きく跳んで、一世紀から四世紀頃の土器に、文字らしきものを書いた例が三重県や九州でいくつか報告されていますが、決して一般的だったわけではありません。何より、七世紀末期以降の墨書土器とはかなり性格の異なるものと考えられます。
さて、八世紀になると、藤原・平城・長岡などの京を中心に大量の墨書土器が確認されるようになります。ところが、土器に墨で字を、何のために書いたのか、をひとことで説明するのはなかなか難しいのです。
だいたい、字とは本来紙に書くもので、そうでなければ木簡などの板に書くもの、つまり、平面に書くものです。少なくとも、土器は文字を書くために作られたものではありません。その土器に書く必要があるから書いたものと考えられるのですが、なぜ「必要」だったかがよくわからないのです。
もちろんわかっているものもあります。呪いの文句を書いたものや、持ち主の名を書いたものなどがそうです。しかし多くの墨書は数文字で、何かの略称としか考えにくく、全体としては「土器に文字は、○○のために書く」の○○が埋まらないのです。
そして九世紀になると、墨書土器は、関東などで、「吉」とか「水」とか言った一~二文字を記した土器が数十点以上も出てくる、というパターンが激増します。ところが平安時代中期、十世紀頃になると、全国的に墨書土器というもの自体が極めて少なくなるのです。
さて、律令国家において、貴族女性が地方に赴くことは、国司となった夫や父についていく以外、ほとんどありませんでした。従って、貴族女性が使い始めたといわれるひらかなが地方で使われることはあまりありませんから、地方の官司の遺跡などで平安時代のひらかな墨書土器が出土する可能性もほとんどないのです。
しかし斎宮では、九世紀末期頃~十二世紀前半頃までの長きにわたってひらかなを記した墨書土器が発見されています。こんな遺跡は全国的に見ても二つとありません。
ところが、このひらかな、ほとんど読めないのです。また、字も決して巧くない、そしてかりに読めても、断片的で意味が通じません。
そこでいろいろなことが考えられます。
一つは、習書。つまり手習いに書いたというもの、とすれば、書き手は、女官か読み書きを習っていた下働きの女性、あるいは地元出身の女性かもしれません。土器は普通の土師器なので、可能性は十分にあります。だとすると、都の女性と地元の女性の交流の資料となります。
二つは、おまじない。何か書き方が殴り書きのようなものもあり、重ね書きのようなものもあるので、文章を記録したりするために書いたのではなさそうなのです。それならもう少し上級の女官が書いたものかもしれません。何か大きな祈願があって、大急ぎで書いた、という感じもします。というのも、ひらかな墨書土器は、九世紀後半~十世紀前半と、十二世紀前半の、割合に限られた時期の遺物なのです。
いずれにしても、女官の多い斎宮ならではの特徴のある遺物と考えられるのが、このひらかな墨書土器なのです。
たかがひらかな、されどひらかな、地味でもピリリと辛い資料です。
(主査兼学芸員 榎村寛之)